リングや練習設備のあるジムでは人の話し声がしている。
ロッカーやシャワールームのある部室は隣接されていて、
スコルピオンはそこにヘルガを押しこむと、内側から鍵をかけた。

 服や荷物が投げ出されていて、とても整理整頓されているとはいえない、男くさい部屋だ。

「手、洗って来いよ」

 ロッカールームの隅に、洗面台がある。促されるまま、ヘルガは水道の蛇口をひねった。
冷たい水で手を洗い、スコルピオンの方をふり向くと、
彼は自分のロッカーからタオルを出してヘルガに投げた。

「ちゃんと洗ってある」

 言訳をするように、スコルピオンは視線を外す。
タオルを受取ったヘルガは、ちょっとだけ苦笑した。
確かにちゃんと乾いてはいるが、しわくちゃで、
顔の前に持っていくとスコルピオンのにおいがした。

 手を拭き、ちゃんとたたみ直して返す。
手渡しをする時、お互いの指が触れ合い、
スコルピオンはぎゅっとヘルガの手を握って引き寄せる。
ヘルガは一歩前に踏みだし、そこで止った。

「・・・・・お前、いいパンチ、してるな」

 何の事かとヘルガはスコルピオンを凝視する。それから先ほどのことを思い出して、

「毎日、あなたの練習を見ていましたから。マネをしてみただけです」

「見よう見まねでクリーンヒットできるものじゃない。
お前、本当にボクシングをやったことはないのか?」

「ありません。スポーツの類は」

 はっきりと答える。スコルピオンは少し考え、タオルをベンチに投げすて、
ヘルガに右手を出した。

「俺の手、握ってみろ」

「握る?」

「握手をするみたいに」

 それに何の意味があるのか、相手がスコルピオンでなければ、
そう質問し返しているところだ。だがヘルガは、素直に指示に従う。

「もっと、力いっぱい」

 言われるままに、指に力を入れる。
スコルピオンは少し眉をしかめ、自分も一度強く握ってから、手を離した。

「握力が、強いな」

「そうですか?」

 ヘルガはなんでもないような顔をする。

「ちょっと俺の手を打ってみろ」

 顔の前に手のひらを広げる。
ヘルガは、「ぱちん」と拳を当てたが、スコルピオンはヘルガの手首を掴んで、

「もっと、思いっきり。さっきみたいに」

 と真剣な目を向ける。ヘルガは一瞬考え、右手を引き、前に出す。
スコルピオンは、拳が当る寸前に手のひらを左にずらしたが、
ヘルガの拳はまっすぐスコルピオンの手のひらを叩いた。

(動体視力もある)

 スコルピオンの素早いストレートを、ヘルガは見逃したことはない。

「いいパンチだ。本当に初めてなのか」

「本当です」

 嘘を疑われ、心外だという顔をする。スコルピオンの前で、ヘルガは感情を表情に出す。

 スコルピオンは、考え込むようにヘルガを見つめながら腕を組んだ。

(才能だ)

 天性の才能だ。

 学習能力が高く、それを模倣できる。それに、細く見えるのに力がある。

「・・・・」

 思いついたようにスコルピオンは、ヘルガがいつも持っているカバンを持ち上げた。

「重い」

「今日は軽い方です。図書館で何も借りなかったので」

「こんなのをいつも抱えてうろうろしているのか」

「思いついたときに、いつでも資料がないと落着かないので」

 考え事をする時は、いつも歩くと言っていたのを思い出す。
だから、自然と力がついたのか。

 それでも、あのパンチ力は「才能」だ。

「お前、ああいうの・・・・襲われそうになったりとか、初めてじゃないのか?」

 スコルピオンの言葉の意味をくみ取ろうと、
ヘルガはスコルピオンの蒼い瞳をじっと見つめ、うなだれるように視線を落した。

「こういう外見ですから。顔も名前も女の子のようだと言われますし、体も小さいですし。
嫌味な天才と嫌煙されるか、か弱い食べられるだけの鳥の雛のように見られるか。
どちらも、慣れています」

 足元を見つめ、肩を落す。大人びた、諦めの態度。
そんなヘルガの姿勢に、スコルピオンは苛立ちを感じる。

「そうやって、自分を見捨てるのか」

「だって・・・・僕にはどうしようもできない」

 小さく呟くヘルガに、スコルピオンの心臓が激しく跳ねあがる。
自分を装い他人との間に壁を築く「天才少年」の仮面の下は、
年齢よりずっと小さな子供のようだ。

「僕は・・・・僕にできることをせいいっぱいやってきた。でも、僕自身は何も変えられない」

 ドクドクと血液が全身にめぐり、目眩がする。

(違う)

 と、スコルピオンは頭の中で叫ぶ。

(いや、お前はそんな嫌味な奴じゃないし、か弱い雛じゃない!)

 スコルピオンとテクニックの話をする時、瞳を輝かせ、声に抑揚があり、
全身で感情を表現する。理論武装するだけの生意気な子供だったら、
自分だってこんなに執着したりはしなかった。

 しかし、本人はそれにさえ気付いていないのか。

 どんなに魅力的な表情をするのか。

 自分がどれだけヘルガを信頼しているか、頼っているか、必要としているか。
改めて感じて、自分自身にも驚く。

 ヘルガと一緒にいるとき、スコルピオンは光を見ることができる。「夢」だ。

(こいつと一緒なら、俺はもっと強くなれる。上を目指せる!)

 そうだ、こいつと一緒なら、「夢を追うこと」ができる!

 たくさんの言葉が頭の中を巡り、慰めの言葉を出す代りに、
スコルピオンはヘルガのメガネを外した。

「?」

 やっと顔を上げたヘルガに、スコルピオンは真顔でその瞳を覗き込んだ。

「どれくらい、目が悪い?」

 スコルピオンの言葉は、いつも支離滅裂だ。
慰められることを期待していたわけではないヘルガは、
弱音を吐いた自分を恥じるように、部室の反対側の壁を指差した。

「軽い近視です。向うの壁に貼ってあるカレンダーの文字は、読めません」

「動くものは、わかるな?」

「小さな虫とかでなければ」

 一歩下がったスコルピオンは、自分の手を大きく動かす。
ヘルガはそれを目で追う。
ゆっくりと振りあげた手を、素早く突出し、ヘルガの鼻先でぴたりと止める。
ヘルガは微動だにせずそれを見つめる。

「いい度胸だ。それだけ見えていれば、十分だ」

「なにが、ですか?」

「一緒に、ボクシングをやろう」

「は?」

 突然の申し出に、ヘルガは眉をしかめる。

「握力も筋力も、始めるには申し分ない。
弱視でも動体視力があって目を閉じないだけの度胸があれば、十分だ。
俺が教えてやる。一緒に、ボクシングをやろう」

「無理です。私には」

「無理じゃない。やろう」

 有無を言わさぬ強引な口調と、魅惑的な蒼い瞳。

「変る必要なんかない。お前は今のままでいいんだ。
ただし、今度は襲われる前に殴ってやれ。
そうすれば、もう誰もお前に手を出そうとしなくなるだろう。
陰口など、言いたい奴には言わせておけばいい。どうせ嫉妬だ。
俺は、今のお前が好きだし、一緒にボクシングをやりたい」

 今のままの自分。

 ヘルガは唇を噛んで表情をゆがめる。

「私には関係ない、とか言うなよ? 
そういう白けた言葉は、他の奴に使え。さっきみたいに・・・・」

 顔を寄せ、軽く唇を重ねる。ヘルガの唇は、熱い。
それとも、スコルピオンの方が冷たいのか。

「言えよ。本当のことを。俺は・・・・強いぞ。お前一人くらい、守ってやれる」

 スコルピオンを見つめるヘルガの瞳が、揺れる。

「・・・・・・・スコルピオン・・・・・」

「あんな奴にキスされて、本当に平気なのか?」

 ヘルガは拳を握り、スコルピオンの胸に当てると、すうっと息を吸い込んだ。

「怖かった。助けて欲しかった。でも、あなたは日の当る場所にいて、
僕はいつも暗くて冷たい場所にいるんだ」

 一粒、涙が零れる。

 それでいい。

 スコルピオンはヘルガを抱しめた。

「俺について来い。世界を見せてやる」

 こくり、とヘルガは小さく頷いた。

 

 時間を忘れたかのように、ヘルガはスコルピオンの腕の中に小さく収まっていた。

「お前、温かいな」

「スコルピオンは、冷たいです。体温が低いんですね」

「変温動物だからな」

 またわけのわからないことを言う。ヘルガが顔を上げると、スコルピオンはニッと笑った。

「昆虫だから」

 自分を指差して見せる。
ヘルガはちょっと小ばかにしたような、あの独特の優越感のある表情を作る。

「正確には、節足動物でクモの仲間です」

「いいよ、なんだって」

「いいかげんですね」

「そういうところは、いいかげんでいいんだ」

 おかしそうに笑い、ヘルガの髪を撫でる。

「お前、本当にヒヨコみたいだ。小さくて、黄色くて、ふわふわしてて、暖かい」

「黄色いって、髪のことですか?」

「肌は黄色くないだろう? 東洋人じゃないんだから」

 支離滅裂でいい加減な言葉。でも、悪くない。

「ヒヨコはな、成長すると怖いんだぞ? 
俺、すごく小さい頃、鶏に突付かれて泣いたことがある」

 クスリ、とヘルガが笑う。いい顔だ。

 ヘルガはそっと体を離した。

「メガネ、返してください」

 片手で持っていたメガネを、スコルピオンは自分にかけてみせる。

「お前からキスしてくれたら、返してやる」

 何か言い返されるだろうと思っていたが、
背伸びをしたヘルガはスコルピオンの唇の端に唇を押し当てた。

「・・・・・」

 スコルピオンの方が、驚き動きを止める。
その隙に、ヘルガは自分のメガネを取り戻した。

「もう一回」

「殴っていいですか?」

 殴ってもいいから、と言いかけたが、
スコルピオンは肩をすくめ、降参したような笑みを作った。

「ジムに行こう」

 ヘルガの手を握る。

「俺は本気だ」

「困ります」

「困ってなど、いないくせに。そもそも、声をかけてきたのは、お前の方だ」

 降参するのは、今度はヘルガの方だ。

(僕は、あなたに声をかけた。あなたの中に、光を見たから)

「今のままでいい。お前がやりたいようにすればいい。
俺はお前に従うし、お前が望むように部員を動かすこともできる。
お前が、誰かに襲われそうになってたら、今度は迷わず俺がそいつをぶん殴る」

「それはダメです。あなたのパンチは殺人的ですから」

 握ったヘルガの手に唇を押し当て、スコルピオンはにやりと笑う。

「お前が殴らないのなら、俺が殴る。俺がお前を守る」

 スコルピオンを見つめるヘルガの口元に、笑みが浮ぶ。

「俺は強い。だが、お前も強くなれる」

 肉体的にも、精神的にも。

 一緒にいれば。

 ヘルガの手を引いて、部室を出る。

 外は明るく、日の光がまぶしい。ヘルガは眩しそうに目を細めた。

 

 光の中。

 

 自分の、やりたいこと。