教室を出て、並んで歩きながら、独り言のようにスコルピオンは話した。 「お前、有名人なんだな。あのあと、ダチに聞いたら、みんなお前のこと知っているんだ。 先月編入して来て、二学年スキップして、主席になった。 だが、どんな奴か聞くと、誰も知らない。 話しかけてもろくな返事は返って来ないし、いつも一人で分厚い本ばかり読んでる。 頭でっかちのいけ好かない秀才だと」 ヘルガは黙って足を運ぶ。 悪口など慣れている。アカデミーにいたときでさえ、影で何を言われているか知っていた。 だがそれが何だというのだろう。関係ない。所詮は、流れていくだけの関係に過ぎない。 目の前を過ぎていく同年代の子供たち。自分には、関係ない。 人間関係など、疎ましいだけのもの。 自分には、数式とアルファベットと、過去の偉人の残した歴史があるだけ。 「入れよ」 ジムの入口で一旦足を止め、スコルピオンはドアを開けてヘルガを中に促した。 「見てろ」 リングのわきにヘルガを立たせ、スコルピオンは上着を脱ぐと腕を振り上げた。 昼食時で、ヘルガとスコルピオンのほかには誰もいない。 ヘルガは言われるままに立ちすくみ、スコルピオンをじっと見つめる。 筋肉のついた腕が、曲線を描く。 (きれいだ) ヘルガは思った。きれいだ。咲き乱れる花に心を動かされたことはない。 花弁のもつ規則性に感動したことはあるけれど、それを「美しい」と思ったことはない。 だが今は、スコルピオンの腕を、その引きしまった筋肉を、 それの描く放物線を、「きれいだ」と感じる。 「違います」 それまでガラス玉のように冷たかった瞳が、熱を帯びる。 自分のカバンを探り、ペンケースから消しゴムを取り出すと、ヘルガはそれを宙に投げた。 「モノは落下する時、必ず放物線を描くんです。力のかかる方向と、重力の関係で。 人間も重力を無視できないのですから、それに逆らわない方向で動いた方が、 無駄な力をかけなくて済むんだと思います」 スコルピオンの腕を取り、曲線をなぞる。ヘルガの目には、三次元の曲線が見えていた。 「へえ」 信じていないような口調で、スコルピオンはヘルガの指示に従う。 半信半疑ながらも、実はこの「頭でっかちの秀才」の言葉が真実であることを悟っていく。 しだいに、二人は熱心に曲線の方向を模索していた。 ふとスコルピオンがヘルガを見ると、ガラス玉のように感情のなかった瞳が、 きらきらと輝いている。口元に僅かに笑みを浮べて。 (そんな顔、するんだ?) スコルピオンはニヤリと笑う。興奮したヘルガの唇は、熱でピンク色に染まっていた。 そして突然、ヘルガは周囲の騒音に気付き、その熱を冷ませた。 昼食を終えた部員達が、集って来ていた。 ヘルガは怯えたように青ざめ、スコルピオンから体を離す。 「ヘルガ?」 そして、自分のカバンをかき抱くと、逃げるようにジムを走り去っていった。 「あー、逃げられた」 部員達はひそひそと囁きあい、何事かとスコルピオンに訊ねる。 スコルピオンは頭を振って肩をすくめた。 ヘルガは居慣れた図書館の一角に座り、 お決りのようにカバンから分厚い参考書とノートを出して広げ、 その上に自分の手を開いて見つめた。 自分は、何をしていたのだろう。 目を閉じると、スコルピオンの描く、あの完璧な放物線が脳裏に浮ぶ。 二次元の曲線を、完璧に三次元で表現できる存在。短い金髪が跳ね、光の粒の軌跡を残す。 そして、あの蒼い瞳。 彼は、もっと強くなれるはずだ。 もっと、もっと。 無意識に、ノートに人型と力関係の数式を書き出す。人間の筋肉のつきよう。 最も強く力の出せる方向。腕の長さと距離。 (違う。腕だけじゃダメだ。上体のひねりと、足の位置) 夢中になって書きなぐり、そしてハッと我に返る。 なんでこんなこと、しているのだろう。 こんなことに、何か意味があるのだろうか。 意味なんか、ない。誰かの発見した数式を頭に入れることや、 もう解明かされている物理の法則を知ることに、何か意味があるのか? ない。意味なんか、ないんだ。 (ある) 彼は、未知数だ。ヘルガの要求したことを確実にこなせる、並外れた肉体と精神を持つ。 なら、自分の発見したことを具現化してくれる彼にこそ、意味があるのではないか。 もし、彼がそれを望むなら。 クラスが違えば、顔をあわせることはあまりない。 ヘルガはいつもうつむいて歩いていたし、必要な場所への最短距離の移動しかしないから。 翌日の授業を、ヘルガは上の空で受けていた。その単語は、もう知っている。 英語もフランス語も、一通り理解できる。数学も、理科も、国語も、歴史も、地理も。 一度読めば暗記できるし、教師の求める解答を答えることもできる。 それに教師は、授業中、回答をヘルガに求めることはない。 ヘルガが答えられる事は、十分知っているから。 クラスの厄介者。そうだな。たぶん、そうだ。 こんな所にいないで、早い所大学でも研究室でも行けばいい。 そう思っているだろう。知ったかぶりして、他人を見下した顔をして、 こんな隅の席にいるのは、迷惑だろう。 自分だって、好きでこんな所にいるのではない。 では、好きな所があるのか? 居場所があるのか? (ない) いつだって、どこだって、自分は異邦人。 「ヘルガ!」 指を組んだまま、ぼんやりと前方を見つめていたヘルガは、 名前を呼ばれて心臓が跳ねあがった。 「生きてるか?」 目の前にひらひらと手をかざされ、自分の世界からやっと抜け出す。 顔を上げると、そこにスコルピオンがいて、あの蒼い瞳でヘルガをじっと見つめていた。 「・・・・・・」 名前を口に出そうとして、言葉に詰る。 「一時限目からぼんやりして、寝不足か?」 クラスが違うのに、何故ここにいるのだろう。 ゆるりと周囲を見渡して、今が休み時間であることに気付く。 「昨日逃げられたから、今日は早めに捕まえておこうと思って」 もう一度スコルピオンを見て、ヘルガは眉を寄せた。 「何故、ですか?」 「何故も何もないだろう?」 拳を握って、ゆっくりと曲線を描いて見せる。 「あれから色々やってみたけど、やっぱりちょっと無理があるみたいだ。 足がな、ついていかない」 「あ」 ヘルガの顔が、ぱっと感情を表す。 「そう、そうなんです。腕だけではなく、体全体の動きとして捉えることを見逃していました」 スコルピオンの口元が吊りあがり、笑みの形を作ると、 彼は握った拳でヘルガの頬に触れた。 「ああ、生返った。 死んでる魚みたいな顔をしてたから、本当に息をしていないんじゃないかと思った」 死んでる魚? 「授業終ったら、迎えに来るからな。逃げるなよ? 今日はギャラリー遠ざけておいたから」 ひらひらと手を振って、スコルピオンが教室を出て行く。 死んでいる魚。 ボクハ、ホントウニ イキテイルノダロウカ? 午前中の授業が終ると、すぐにスコルピオンは駆込んできた。 彼の背後から、彼を呼ぶ声がしているが、 「今忙しいんだ! またあとでな!」と邪険に返答する。 「いいんですか? お友達なのでしょう?」 「あ? ああ、オトモダチね。いいんだ。それより今は、こっちに夢中だから」 そう言って、また拳を握る。その拳に、ヘルガはそっと触れた。 自分も、この拳に夢中なのだ。 楽しい。 楽しい、と思ったことが、今まであっただろうか。 真剣に、時にはムキになって、スコルピオンの体の動きを指示する。 スコルピオンは、「できない」「無理」という言葉を、絶対に発しない。 だがもちろん、実践者としての反論はする。時には、激しい口論にもなる。 それでもスコルピオンは動くことをやめない。ヘルガの意見も求め続ける。 「強くなりたい」 スコルピオンがそこまで一生懸命になる理由は、一つだった。 強くなりたい。 今まで以上に。それ以上に。 そしてヘルガも、真剣にそれを受けとめた。自分の理論が間違っていると知ることもある。 紙の上の計算ではない。ジムの中をうろうろ歩き、ノートを出して何度も計算しなおし、 新しい動きを提示する。スコルピオンはそれに従う。 実際の動きをあわせてみて、それを修正する。 楽しい。 ヘルガは、それを「楽しい」と思った。 ジムの連中が周囲にいることも、ヘルガはしだいに気にしなくなっていった。 「慣れ」だ。話しかけられることにも慣れてきた。 他人との接触は苦手であったが、それまでのような「苦痛」ではなくなっていた。 そしてもう一つ気付く。慣れるにしたがって、 他の部員達も指導を求めてくることがあったが、ヘルガはそこに自分の「熱」を感じなかった。 なぜなら、自分の求める動きを完璧なまでにこなせるのは、スコルピオンだけであったから。 他の者達は「できない」のだ。「できない」し、「そこまでの努力」もしない。 ヘルガはそれを非難しないが、 周囲のほとんどが「スコルピオンのようになる」ことを諦めていた。 努力し続ける才能、とは、よく言ったものだ。 スコルピオンといる時、ヘルガは良くしゃべった。 が、それ以外ではやはり無口で通した。 スコルピオンは、特別な存在、だった。 ほぼ毎日、ヘルガはスコルピオンと時間を過すようになっていたが、 クラスの行事や補習授業などの関係で、時間が合わないこともしばしばあった。 そんな時、ヘルガはやはり図書館に通った。 人間工学の本を読み漁り、頭の中で自分なりの理論を組みたてながら図書館を出る。 考え事をしている時は、散歩をするのがいい。 目的もなく歩きながら、自分の世界にどっぷりと入り込む。 時々立ち止り、空を見上げ、青い空の向うの宇宙に思いを馳せる。 スコルピオンの、瞳の色だ。 彼は、どこまで登りつめるつもりだろう。 果てのない、あの宇宙のように。 校内をぶらぶら歩いていて、図書館の裏にさしかかった時、 目の前に大きな影を感じてヘルガは足を止めた。 「?」 背の高い、体格のいい、 (9年生だ) 最上級生。名前は知らないが、顔を見たことはある。 「何か、私に用ですか?」 完全に気分を害されたのだが、氷のような表情はそれを表さない。 ヘルガは、スコルピオンの前以外では、感情を表すことはなかった。 その青年は、真剣な面持でヘルガを見下ろしている。 その表情に、ヘルガは僅かに眉を寄せる。 (嫌な予感) 返答を待たずに踵を返そうとすると、ぐいと腕をつかまれて、 ヘルガは図書館の裏の壁に押付けられた。 「はじめて見たときから、気になっていたんだ」 大人びた声は、太く、緊張からか震えている。 「俺と、付合ってくれないか」 レンガの壁が、冷たい。日陰になっているせいだ。 小さな木立は、メインストリートから外れ、人通りがほとんどない。 静かで、一人で考え事をするにはちょうどいいが、誰かに助けを求めるには不都合だ。 くるくると瞳を動かしながら、そんなことを冷静に考える。 両方の肩を強く掴まれ、壁にぐっと押付けられながら、 ヘルガは青年の顔と、体格と、表通りに出る最短距離を見測る。 「お断りします」 簡潔に応えながら、逃げ道を探す。 「ヘルガ君」 キミはかわいい、一緒に大学を目指そう。 そんなことを囁いてくるが、ヘルガは溜息を零すばかりだった。 (幸せな『凡人』) 青年は顔を近づけ、ヘルガに唇を押付けてきた。 「・・・・・・」 目を見開いたまま、青年の背後を見る。 (スコルピオン) 木陰から離れた所、日の光の差す場所に、彼はいた。 明るい金色の光をいっぱいに浴びて、こちらを見ている。 (スコルピオン) あなたは、日向にいる。僕のいる場所とは違う。ここは、暗くて、冷たい。 がさついた感触を顔に感じながら、ヘルガは自分の両手が動くことに気付く。 指を握って、開く。 (動く) 自分の身体が動くことに、初めて気付く。 まるで、はじめて肉体というのものを持ったかのように。 軽く拳を握ると、ヘルガはそれを引き、青年の頬骨を正確にノックした。 力を込めたつもりはなかったが、それまで覆い被さっていたものが、ふっと離れる。 飼犬に手を噛まれたかのように、青年が驚き怒り、ヘルガを睨む。 と、ヘルガは反対の腕を直線に繰り出した。 ぱき 嫌な音がして、青年は地面に倒れ、うずくまってうめいた。 ヘルガは自分の左手を見た。拳に血が付いている。鼻が、折れたのだ。 自分が何をしたのかさえわからないように、ヘルガは自分の拳を見つめたまま立ち尽した。 「ヘルガ!!」 腕を掴まれ、引き寄せられ、日の当る場所まで連れて行かれる。 「ヘルガ、大丈夫か?」 呆然としているヘルガの肩を、スコルピオンは揺さぶった。 「・・・・・何が?」 何故スコルピオンが興奮しているのか、ヘルガはわからないように首をひねる。 スコルピオンが倒れている男を顎でしゃくると、ヘルガは、 「ああ」 と間の抜けたような声を出した。 「何故あなたがここにいるのですか? 補習は終ったのですか?」 「終ったから、お前を探してたんだ! お前、襲われて・・・・」 ヘルガの腕を掴むスコルピオンの手に、触れる。力強い手。 スコルピオンは、自分がまだヘルガを掴んだままでいることに気付いて、慌てて手を離した。 「ヘルガ?」 「大丈夫です。そう答えるべきですね? 大丈夫でないのは、彼の方です。 私は、彼の鼻を折ってしまったようです。医務室に連れて行きましょう」 なんとか起き上がろうとしている青年に、ヘルガが近寄ろうとすると、 スコルピオンは驚くほどの勢いでヘルガを引戻した。 「バカか?! それとも、あいつと、そういう関係なのか?!」 あまりの勢いに、よろけてスコルピオンの胸によりかかる。 スコルピオンは、ヘルガの体をぎゅっと抱き締めた。 「何を言っているのですか? 私は彼の名前も知りません。 でも、怪我を負わせてしまいました」 まったく話にならない! スコルピオンは、ヘルガを抱えるように部室のある方へ歩き出した。 「スコルピオン、彼は・・・」 「放っておけ! 自業自得だ!」