アメリカにあるアカデミーからベルリンに呼び戻され、 ヘルガは大学へ進む準備のため、一時ギムナジウムに通うことになった。 アビトゥア(大学受験資格)をとるのは簡単だった。 だがいかんせん、年齢が足りない。 スキップできるとはいっても、十代前半で大学に入ることには反対が多かった。 だから、しばらくギムナジウムに在籍することになったのだ。周囲が納得するまで。 アメリカは、もっと自由だったと思う。 アインシュタイン・アカデミーは天才児の集りで、 あのままあそこに在籍していればアメリカの大学に行くことは楽勝だっただろう。 それでも、ドイツに戻された。 教育熱心な両親だが、 さすがに「このままでは、もう二度と息子はドイツに帰って来ないかもしれない」 と思ったのだろう。 そうは言っても、ヘルガにしてみれば、どうでもよいことであった。 アメリカにいようが、ドイツに戻ろうが。 アカデミーだろうが、ギムナジウムだろうが。 所詮は、目の前を通り過ぎていくだけのこと。 勉強は嫌いじゃない。たぶん、好きだ。しかし、目的はない。 いや、目的はある。「知る」ということ。それだけ。 幼い頃から、次々出される課題をこなしていった。それだけ。 「天才」と呼ばれることに、意味はない。 気がつくと、両親はガラス細工の作品を扱うように、息子を扱う。 学校の教師も。一線引いている。 アカデミーで主席を争った少女だけは、ずけずけとヘルガに踏みこんできたが、 ヘルガ自身、それをたいして気に止めなかった。 所詮、目の前を通り過ぎていくだけのこと。 いつしか、「自分が何を考えているのか」さえ、わからなくなっていた。 無機質で無感情な二次元の世界だけが、ヘルガの世界になっていた。 午前中の授業が終ると、授業のない午後は図書館で過すのが常になっていた。 自宅でも十分勉強する環境は整っているのだが、ヘルガは図書館が好きだった。 ずっと後になって気付いたのだが、自宅には誰もいないが、図書館には人がいる。 「人がいる」場所に、ヘルガはいたかったのだ。 校庭で、運動部の連中が走り回っている。 それを遠目で見ていると、まるで草むらのアリだな、などと思えてくる。 彼らの目的が、ヘルガには理解できない。何が楽しくて、あんなに群れるのか。 「試合!」 どこからか、学生の声がする。 「ジムだよ!」 「大学生とだって!」 集団が、ヘルガの後から彼を追い越していく。 そして、すぐ右手にあるボクシングジムに入っていく。 ボクシングは、知っている。あの、殴りあう奴だ。 ルールを言えと言われれば、暗唱できる。一通りのスポーツのルールは知っている。 「知識」として。 ジムの中で、激しい歓声があがっている。 「5年生よ、あの金髪!」 ドア付近にいた少女が、興奮して叫んでいる。 「いやだ、知らなかったの? 有名よ!」 「アレでしょう? ボクシング部の部長、ノックアウトさせちゃったって」 「そうそう、だから、ジムの連中、彼と試合したがらないのよ。 年下に負けたら、面目丸つぶれだものね」 何をそんなに興奮しているのだろう。 ふらりと、ヘルガはジムに足を向けた。5年生といえば、同級生だ。 もっとも、ヘルガはまだ13だったが。 この学校では、二階級のスキップしか赦してくれなかったから。 ヘルガは小柄なので、人垣から中を見るのは難しい。 ちらりと見て、見られないので諦めかけた時、人が動いて中が見えた。 「・・・・・・」 ほんの数秒。 ヘルガは息を飲んだ。 金髪の少年の腕が、放物線を描いて年上の青年のこめかみにヒットする。 すぐに腕を引き寄せ、今度は反対の腕が一直線に青年の顎を打つ。 キレイな曲線と直線。まるで、数学の教科書を見ているように。 歓声。 ゴング。 また歓声。 ヘルガは外側の壁にぴったりと背中を押しつめ、目を閉じた。 金髪の少年の描く放物線が、脳裏に焼きついている。 物理で新しい発見をしたときのような、数学の規則性を発見した時のような、 頭の中がぐるぐると高速回転する。 観客がぞろぞろと出て行き、ノックダウンした大学生が運ばれていき、 あの金髪の少年が外の空気を吸いに出てきたとき、パッとヘルガは目を開けた。 「あの!」 興奮に頬を紅潮させ、少年を呼びとめる。ふり向いた少年は、ヘルガに眉を寄せた。 「腕の角度!」 ヘルガは、無我夢中で少年の腕を取り、持ち上げた。 「もうちょっと下に下げた方がいいです。力を下方向に向けると、スピードが上ります」 少年は、されるがままに腕を振り、「あ」と声を上げた。 「その方が楽でしょう?」 「ああ」 何度か腕を振ってから、少年は改めてヘルガを見た。 「・・・・・お前、男、か?」 「それから、ストレートを出す時、肘が上ってます。意識して肩を落した方がいいです」 「男かと聞いている」 「どっちでもいいです! 私の話、聞いてますか?」 目を瞬いてヘルガを見ていた少年は、唇を吊り上げて笑い出した。 「お前、面白いな。ダンケ、参考になった。勝ち試合でダメだしされるのは、初めてだがな」 少年は、ヘルガの背中を「ばん」と叩き、仲間と一緒に去っていった。 ヘルガは、興奮している自分に気付き、驚く。 (ボクシングって、きれいなんだ) 曲線と直線。 ふうと溜息をついて、ヘルガは本来の目的地である図書館に足を向けた。 授業は特に真新しさを感じないが、復習のつもりで真面目に講義を聞いている。 ここで何年か主席を保てば、早いうちにアビトゥアを取れるかもしれない。 もっとも、大学に行ったからといって何をしたいわけでもないが。 「ヘルガ!」 就業のチャイムが鳴ってしばらく、ヘルガはノートをまだ書いていた。 教師の授業に、自分の知っていることを書き足す。 「ヘルガ!」 二度目に呼ばれて、ヘルガは顔を上げた。 昨日のあの少年が、口元を吊り上げて立っている。 「えっと」 「スコルピオン」 少年は、自分を指差す。 「スコルピオン」 ヘルガが繰り返すと、少年は「ニッ」と笑って、ヘルガの隣に腰掛けた。 「お前、ヘルガって言うんだろ?」 「・・・・Ja」 「あの後な、ジムに戻って、お前の言ってたとおりにしてみたんだ。 なるほど腕の振りが楽になった。お前、ボクシングの経験者か?」 「いいえ」 へえ、とスコルピオンがヘルガの顔を覗き込む。 ヘルガは目を見開いてスコルピオンを見つめる。 「お前、目が大きいな」 何度かまばたきをしてから、ヘルガは首をひねった。 「あなたの言っていることは、支離滅裂です。何が言いたいのか、わかりません」 すっとスコルピオンが顔を引いた時、ヘルガはそこに引き込まれるのを感じた。 蒼い瞳。濃い、蒼。宇宙へと続く空を思い起されるような、透明な蒼。 「俺も何が言いたいのかわからん」 「?」 ヘルガは顔をしかめた。そうでなくても、会話は苦手だ。 理論武装ならできるが、普通の会話というのは、何を伝えたいのか、 何を伝えようとしているのか、理解に苦しむ。人間の言葉は、難解だ。 「デートに誘いにきた」 「デート?」 どうもこの男の言葉は、一貫していない。 「どうせ図書館で暇を潰すんだろ? だったら、つきあえ」 「断ったら?」 「来るさ」 立ちあがったスコルピオンは、手を腰に当て、口元を吊り上げる笑いをした。 「来るだろ?」 この男の強引さには閉口する、 だが、 最初にこの男に声をかけたのは、自分だ。 惹かれたのは、自分の方だ。