ジョルジュは、自分の気持ちに整理をつけた。

 突きつけられた、現実。

 そこで明らかになったのは、
父の中にはスコルピオンという男しか存在しておらず、
スコルピオンもまた、
ヘルガのためなら地位や財産のみならず命までも投げ打つという事。

 そこには、誰も立ち入る事はできない。

 たとえ、実の息子であっても。

 それが、現実。

 ならば、自分はどうすべきか。

 大切にされこそすれ、愛してはもらえない。

 その現実を、どう捉えるべきか。

 

 簡単だ。

 愛されようなんて、思わなければ、いいのだ。

 

 ジョルジュは、ザナドゥの生活する教会に向かった。

 もう逃げない。恐れない。

 ザナドゥの心の闇さえ。

 

 教会の門扉をくぐると、真っ先にジョルジュを見つけたのはジャコビニだった。

 黒髪で眼鏡をかけたその小柄な少年は、ジョルジュを見るなり、指差し、叫んだ。

「何をしに来た?!」

 この少年がザナドゥを慕っていることは知っている。
だが、それがどうだというのだ? 
ジョルジュは真っ直ぐにジャコビニを見据え、ゆっくりと歩み寄った。

「ザナドゥはどこです?」

「お前なんかには、関係ない! そうだろう? 西のお坊ちゃん!」

「私は西ドイツの生まれではありません。
たしかに、金銭的に困ったことはありませんけど」

 今まで、そんな風に金持ちを気取った事はなかったが
(自分で自分を裕福だとか思った事もない)、あえてそれを口にする。

「金持ちのお坊ちゃんの来るところじゃない。
ママの所に帰れよ! 帰って甘えてろ!」

 あざ笑うように、卑屈に笑う。
ジョルジュは、そんなジャコビニ少年を哀れに思う。

 擁護してくれる親もなく、常に満腹でいられることもなく、
満足な教育も受けられない。それが、この少年をこんなにも卑屈にするのだ。

「私はザナドゥに会いに来たんです。あなたにじゃない」

「うるさい! またザナドゥをどこかに連れて行こうって言うんだろ? 
お前が道楽でザナドゥを引っ張りまわしたりなんかするから、
ザナドゥはシスターに酷く叱られたんだ! 
金持ちは金持ちと遊んでろよ!」

 金、金、それがなんだというのだ。ジョルジュはイラツキを感じた。
鼻先が引きつり、目を見開く。

「うるさいな。金なんかいくらでもくれてやる。
いくら金があったって、手に入らないものがあるんだ。
君みたいに、わめき散らして駄々をこねたって、現実は何も変わらない。
そんなこともわからないの? 頭悪いね!」

 吐き捨てるようなジョルジュの言葉に、
興奮で顔を赤くしたジャコビニが飛び掛る。

 体重を支えられずに地面に倒れ、二人は地面の上をごろごろと転がった。
喧嘩なんかした事のないジョルジュと違う。
ジャコビニはジョルジュの上を取り、拳を振り上げた。

「なんだとう? 何様のつもりだ? 
何もかも満たされてて、俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

 一発、二発、拳を食らう。だが、意外とその拳に重みはない。
ジョルジュは本能的に体をよじってジャコビニの下から逃げると、
逆に拳を握って真っ直ぐに突き出した。

(振りかぶってはだめ。力で押すのではない。拳を引くのだ)

 脳裏にぱっと公式が浮かぶ。

 これだ。

 もちろん、初めてのパンチが上手く決まるはずもない。
だが、どうすればよいかが脳裏にひらめく。

 力の弱いヘルガが、それをフォローするために考えた動き。

 体を低くし、相手の動きを見極める。

 防御が、がら空きじゃないか。

 気分が高揚する。

 軽い力で繰り出した拳が、ジャコビニの頬骨の辺りにヒットする。

 これが、ボクシングか。

 ホッと息をついた隙に、ジョルジュはジャコビニの拳を腹に受け、膝をついた。
頭上でジャコビニのあざ笑う声がする。それは、癇に障る声だ。
ジョルジュはジャコビニにタックルして、地面に押し倒した。

 そんな二人の少年の泥仕合に、その他の少年たちがざわめき始める。
教会の少年たちは、正直、
どこかの裕福そうな少年がこんな風にドロドロになって
闘うなどとは思ってもいなかったのだ。

 騒ぎを耳にしたザナドゥが、礼拝堂から出てきた。
無断外泊の懲罰で、一ヶ月の礼拝堂の掃除を言い渡されていたのだ。

 何事かと歩んでくるザナドゥに、走り寄って事情を説明したのはモスだった。

「ジャコビニはかなり怒っている。あの坊ちゃん、殺されるぞ?」

 ザナドゥはしばらく取っ組み合う二人を見下ろしていた。
ジャコビニはそれほど喧嘩は強くない。
それでも、お坊ちゃん育ちのジョルジュよりは数段上だろう。

 止めた方が良いと言うモスを片手で黙らせ、
ザナドゥはジョルジュの動きを見つめた。

 拙いながらも、相手の殴り方を模倣している。
ボクシングの素質があるのだろう。

 それに、どんなに殴られてもギブアップしない。

「やめろ、ジョルジュ」

 ザナドゥの声が届いたのか、
ジョルジュは振り上げた腕を止め、ザナドゥを見上げた。
動きの止まったジョルジュの顔を、ジャコビニが殴る。

「もう終わりかよ? 腰抜け!」

 倒れた地面から体を起こしながら、ジョルジュはキッとジャコビニを睨んだ。

「ザナドゥがやめろと言ったからやめたんだ!」

 ジョルジュの言葉に、ジャコビニがハッとして腕を下ろす。
ジョルジュはよろけながら立ち上がり、息を荒げながらジャコビニを睨む。

「金があるとか親がいるとか、そんなくだらないことで自分を貶めて、
他人を嫉妬して。自分の人生、そんなくだらない物差しで評価して、
それで満足なんですか?! 金があったって、本当に欲しいものは手に入らない。
親がいたって愛してなんかくれない。
そんな現実を悲観して泣き暮らしたって、ちっとも幸せになんかなれない! 
ないものをねだっても、決して手に入らないものを欲しても、
まったく意味はないんです! 神様だって、何にも与えちゃくれない。
だったら、自分でどうにかしなきゃダメでしょう?! 
欲しいものはねだるんじゃなくて、自分で掴みに行くんです! 
だから私はここに来た。
神も親も、愛してくれないならいないのと同じ。
だから、私は、誰に従うかは自分で決める! 
私を従わせることができるのは、私に命令できるのは、ザナドゥだけです!」

 沈黙。

 ジョルジュの宣言に、誰もが言葉を失う。

 ジャコビニは、顔を青くして震えている。

 ジョルジュはザナドゥを見た。意志の強いその瞳は、父親譲りだ。
ザナドゥは思い出していた。スコルピオンにナイフを向けたとき、
ヘルガはそんな風な目でザナドゥを見た。憎しみや哀れみなどではない。
自分の決意を表す、強い眼光。

 他者を寄せ付けない、強い意志。

 それは、己の中の可能性。

 絶対的な信頼を得られたとき、その先が見えてくる。

 その信頼を裏切らないために。

 安っぽい慰めではない。同情などいらない。
必要なのは、その先に進むための道標。

「来い、ジョルジュ」

 くるりと背を向けたザナドゥは、ゆっくりと歩き出した。
ジョルジュは小走りで後を追う。二人を引き止める者はいない。
ジャコビニでさえ。

 

 

 

 無言で歩き続け、日が暮れる頃やっとたどり着いたのは、
スコルピオンの屋敷だった。

 庭に水をまいていたヘルガが、やって来る二人の子供に目を留め、
ホースを片付けた。

「ジョルジュ、喧嘩でもしたんですか? 泥だらけになって」

 さして驚いた様子もなく、むすっと押し黙っているジョルジュの前に腰を落し、
自分のシャツの袖でジョルジュの目の下の汚れをこする。

 ジョルジュはそんな子ども扱いがうざったそうに、ヘルガの手を振り払った。
ヘルガは別に気分を害した様子も見せず、
さりげなくジョルジュに触れ、傷を確認する。
その手つきは、心配する親というより、冷静な小児科医だ。

「ありがとう、ザナドゥ、連れて来てくれて」

 ヘルガの微笑みは、薄い水の膜のようだ。誰にも平等の微笑み。
ただ一人を除いて。

「あんた、ボクシング、強いんだろう?」

 冷めたザナドゥの言葉に、ヘルガは頷く。

「ジョルジュに教えてやれ。才能がある」

 ヘルガの眉が上がる。

「オレの隣にいる奴が、いつも泥だらけじゃ困る」

 目をしばたたいてザナドゥを見つめていたヘルガは、
不思議そうにジョルジュの方も見る。
ジョルジュは少し驚いたように、ザナドゥを見つめていた。
ヘルガはジョルジュの手を取り、その拳に触れた。

「やりたいんですか? ボクシング」

 手を握られて、ジョルジュはサッとそれを振り上げた。
そんな風に、触られたくはない。
触れられる事を拒絶するジョルジュに、ヘルガは少しだけ悲しげに目を細めた。

「強くなりたいんです。その方法がボクシングというだけで」

 そうですか、とヘルガはそれ以上ジョルジュに触れる事をやめた。

「いいですよ。スコルピオンの方が強いんですけど、
あの人の闘い方は、あなたにはできないでしょうからね」

 本心の見えない微笑を、ヘルガはまた取り戻す。
そして、ジョルジュの耳元にそっと囁いた。

「きっと、ザナドゥの闘い方は、スコルピオンに似ているんでしょうね」

 スコルピオンが闘う姿など見た事のないジョルジュは、何も答えなかった。

「それから」

 ヘルガと距離を置いていたザナドゥが、言葉を続ける。

「オレもこっちに住む事にする」

 取り繕うようなヘルガの微笑が抜け落ち、正真正銘驚きの表情に変わる。
スコルピオンと一緒のときでしか目にする事のない、感情的なヘルガの表情。
ジョルジュもまた、驚いてザナドゥを見つめる。

「ジョルジュが来るたびに、こんないざこざを起こされては迷惑だ。
連中は、西側の人間ってだけで目の敵にするからな」

 ジョルジュは何度もまばたきをし、ぱあっと表情を輝かせた。

「オレはいつかあいつを殺す。それには、近くにいた方が都合がいい」

 止めていた息を、ヘルガはゆっくりと吐き出した。それは、安堵の表情。

「そうですか。では、私のいないところで狙った方がいいですね。
私は何があってもあの人を守りますから」

 ヘルガの言葉に、ジョルジュが食って掛かる。

「ザナドゥには手を出させません! たとえ、お父さんでも!」

 真剣なジョルジュにヘルガは口を押さえてくすくすと笑った。

「そう? ではライバルになるかもしれませんね。
自分を鍛えて、もっと強くなりなさい、ジョルジュ。
私より強くならなければ、ザナドゥは守れませんよ」

 ヘルガは俯いてクスクスと笑ったが、見せない表情の裏側で涙を飲み込む。

「笑い事ではありません! 私はお父さんより、ずっとずっと強くなります! 
お父さんみたいに、現実から逃避して誰かを傷つけるような事は、絶対しません!」

 ぴくり、とヘルガの肩が震える。
言い過ぎたか、とジョルジュは思ったが、本当の事だ。
数秒ヘルガは動きを止め、パッと顔を上げたときには笑みを戻していた。

「がんばりなさい」

 優しげな言葉とは裏腹に、ジョルジュの肩に置いた手には力がこもっていた。

「オレは一度教会に戻る」

「では、あとで迎えに行きます。三人で何か食べに行きましょう。
それとも、ジョルジュの手料理の方がいいですか? 案外美味しいですよ」

「案外ってなんですか!」

「褒めているんです。私は、あなたのつくる食事は好きですよ。
たまに卵を焦しますけど」

 むっと唇を尖らせるジョルジュに、ザナドゥの表情がふと緩む。
ヘルガにとって、ジョルジュにとっても、初めて見るザナドゥの笑いだった。

「焦げた卵も、悪くない」

 今まで見せたこともないほど、ジョルジュは満面に笑みを輝かせた。

 ザナドゥは、それ以上何も言わず、戻って行った。

 ザナドゥが去った後、ジョルジュの笑みが消え、真顔になり、
まだ膝を落したままのヘルガに視線を合わせる。
ヘルガもジョルジュを見つめ返した。

「私、お父さんのこと、嫌いです。父親として、失格だと思います。
お母さんの夫になる権利はないほど、最低な男だと思います」

 ヘルガは唇を結んで、じっとジョルジュを見つめている。

「・・・でも、医者としては尊敬しています」

 口元に笑みをつくり、ヘルガは再びジョルジュの手を取った。

「では、医者としてあなたに頼みます。傷を、診察させてください」

 こくり、と頷いて、ジョルジュはヘルガの手を握り返した。