それからしばらく、ジョルジュはおとなしくしていた。 普通に学校に行って、終ればすぐに帰宅し、学習机に向かう。 ここに来てしばらくそうしていたように、 誰とも会わず、学校だけを行き来する。 屋根裏部屋から、古い父のノートをすべて出して、自分の机の引き出しにしまった。 毎日、古いノートを熟読する。 誰と戦い、どんな戦略をとったのか。どんな訓練をしたのか。 図書館や古本屋で昔のボクシング雑誌を集め、「西ドイツの英雄」について調べた。 「英雄のその後」についても。 なるほど、ザナドゥの言っていた事は正しい。 西ドイツのJr.ボクシングの英雄には、常にその天才参謀の姿がついて回る。 表立ってインタビューを受ける事も、メッセージを発信する事もなかったが、 「英雄」の影には、常に「参謀」の姿があった。 それは、「恋愛」なんて言葉で片付けられるものではない。 光と影、空と大地。決して、分かつ事のできないもの。 あれからスコルピオンは、法的処理に走った。 身寄りのなかったザナドゥ少年を正式に自分の子供と認知し、戸籍に入れる。 一度、孤児院を兼ねる教会に出向いたが、ザナドゥは面会を拒絶。 スコルピオンは無理強いはせず、 本人がその気になったらいつでも受け入れる準備ができている事を告げるに留まった。 ジョルジュはそれから、あのピアノの部屋を掃除した。 あの開かずの扉を開いたのはヘルガであったが、 あれ以降ヘルガはあの部屋に足を踏み入れようとはしない。 その代わりに、ジョルジュが部屋をきれいにした。 なんとなく気まずい雰囲気のまま、日々が流れる。 夜、ジョルジュがノートを読み耽っていると、 部屋のドアがノックされ、ヘルガが入ってきた。スコルピオンは仕事でいない。 「ずいぶんと懐かしいものを見つけ出しましたね」 椅子に座ったままのジョルジュを、後ろから覗き込む。 「ボクシングに物理学を引用するなんて、お父さんらしいです」 ふふ、とヘルガが鼻で笑う。 「おかしいでしょう?」 「ええ。でも、公式は合っています」 ヘルガはジョルジュのベッドに腰掛けた。 「スコルピオンに出会うまで、私の知識は紙の上の偶像でしかありませんでした。 スコルピオンがそれを具現化したんです。 自分の知能を持て余し、灰色の世界に閉じこもっていた私を、 スコルピオンが光ある世界に引き出してくれたんです」 「まるで、ひよこのインプリンティングですね。 初めて見たものを親だと信じ込んでしまう」 「・・・そう、ですね。私はピーピー鳴くしかできないヒヨコでしたから」 ジョルジュは体の向きを変えて、父親を見た。 ヘルガは、相変わらず穏やかに微笑んでいる。 誰にでも見せる、表面上の笑み。 「お母さんは、お父さんはあの人の前でしか、 本当に笑ったり怒ったりできないって、言っていました。 お父さんの中には、おじさんしかいないんですね」 ヘルガの笑みが、愁いを帯びおる。 「おじさんは、ザナドゥを引き取りたいって思っているみたいですが、 お父さんは本当にそれでいいんですか? おじさんが・・・おじさんを愛した女性の子供と、一緒に住むなんて」 「あなたはここにいてくれます」 「私は・・・」 ジョルジュは口を開いて、言葉を止めた。確かにそうだ。 スコルピオンが全てを投げ打ってもいいと言うほど愛している人の子供が、ここにいる。 ヘルガが、別の女性と関係を持った証拠。 なぜそれが、許せるのだろう? スコルピオンは、キャサリンを憎いとは思わないのだろうか。 「あの人の全てを愛しているから、 あの人が担うべき責任も、償うべき罪も、私は受け入れます。 それに、ザナドゥ、あの子、私は好きですよ。昔のスコルピオンみたいで」 「昔のおじさん?」 ヘルガの眉が、滑稽に跳ね上がる。 「スコルピオンもね、ご両親がいないんです。 独りでこの屋敷に住んでいて、鋭い刃みたいに、他人も自分も傷つけて。 でもそれは、孤独な自分を守るため。 あの人は、一人になると自分を傷つけてしまう。傷つく事を恐れないんです」 昔のスコルピオン・・・。ジョルジュには、ザナドゥの姿が重なる。 自分に誰も踏み込ませないのは、自分の一番弱いところを守るため。 「私は、スコルピオンを守りたい」 「そんなことを言っていると、本当にザナドゥに殺されますよ」 くすくすとヘルガはおかしそうに笑った。 「まだね、子供には負けませんよ。 ザナドゥがどんなに強くても、私には勝てません。 私は、これでも西ドイツでナンバー2の腕を持っていたのですから」 たいした自信家だ。 だから、スコルピオンを英雄と呼ばれるまでに押し上げたのか。 ジョルジュは呆れたように首を横に振った。 「ザナドゥは、もっと強くなります。お父さんより、おじさんより」 「そうですね。楽しみにしています。 くれぐれも途中で体を壊さないように、気をつけてあげてください。 ボクサーにとって、ボクシングができなくなる事は、死ぬより辛い事ですから」 それだけ言うと、ヘルガは立ち上がった。 「・・・・おじさんは、もうボクシングはできないんですか?」 ドアに行きかけ、ヘルガは振り向いて目を細めた。 「やったら、死にますよ。確実に。私はスコルピオンを死なせない。絶対に」 だから、医者になったのですね。ジョルジュは胸の中で呟いた。 「じゃあおじさんは、死ぬより辛い経験をしたんだ?」 「それを慰めたのは、私ではありません」 ヒクリ、とジョルジュの頬が引きつる。 「ですから私は、彼女と、彼女の息子に、できる限りのことはします。 彼女からスコルピオンを奪ったのは、私ですし」 言葉を失うジョルジュを残し、ヘルガは部屋を出て行った。 (違う) ジョルジュはそう言いたかった。 (あなたが奪ったんじゃない。あの人が、あなたを選んだんだ) もしかしたら、ザナドゥのお母さんは・・・全てを知っていたのかもしれない。 ジョルジュの母がそうであるように。 そうか。 そうなんだ。 だから、結婚しなかったんだ。 ザナドゥのお母さんは、スコルピオンの事が好きだったから。 だから、無難に亡命する道を選ばなかったんだ。 振るえる手を組み合わせ、ジョルジュは窓の外を仰いだ。 神様。 いつかその事が、ザナドゥに伝わりますように。 それまで、私はザナドゥを守ります。 ザナドゥがいつか父親を超えたとき、きっとそのことが伝わりますように。