誰かを好きになる事で、その人を傷つけてしまう事もある。

 それが最初からわかっていたら、自分はその人を好きにならずにいられたか。

 こんな関係が最初からわかっていたら、自分はザナドゥに近付かなかったか。

 好きという気持ちを、押し留めていたか。

 ジョルジュは涙を飲み込む。

 好きになる事で、相手を傷つけ、自分も傷つく。
それでも、一緒にいたいと願うか。

 父は、こうなる事が最初からわかっていたのか。
わかっていて、ザナドゥを呼び込んだのか。
そうすることで、自分が好きな人も傷つく事がわかっていて。

 スコルピオンに切っ先が向けられたとき、父は当然のように自らの体を投げ出した。
そしてスコルピオンも、ヘルガが自分を盾にする事を平然と受け入れた。
それが、当然であるかのように。

 そんな関係を見せ付けられ、ジョルジュはどうしようもない敗北感を味わう。

 果たして自分は、ザナドゥが傷つく事さえ受け入れる事ができるのか。

 ザナドゥに切っ先が向けられたとき、自分の体を盾にできるのか。

 

 屋敷を飛び出したザナドゥは、庭のクリスマスローズの前で足を止めていた。
ジョルジュがそれに追いつく。

「ごめんなさい! こんなことになるなんて・・・私、知らなくて・・・」

 みっともない言い訳。

 知らないことは、謝罪にならない。

「ザナドゥ・・・」

 ザナドゥは俯いたまま立ち尽くし、足元のクリスマスローズを見下ろしている。

「オレは・・・あいつを、知っている」

「え?」

 ザナドゥは拳を握った。

「あの男は、昔、西ドイツのJr.ボクシングのチャンピオンだった」

 知っていたのか。知らなかったのは、自分だけ。ジョルジュは唇を結ぶ。

「あの男がチャンピオンになれたのは、あの男一人の力じゃない。
常にあの男に付き従い、的確なアドバイスを与えていた天才的参謀の力があったからだ。
それが、あいつ・・・お前の父親、ヘルガだ」

 ハッとジョルジュは息を呑む。

 昨夜、自分はザナドゥに全てを打ち明けた。
父が、母を捨て、ドイツで恋人と暮らしている事。
つまり、ザナドゥの父親が、
ジョルジュの父と恋人関係にあると暗に知らしめてしまったのだ。

 迎えに来るはずだった父親が、迎えに来なかった理由。

 それは、ジョルジュの父親にあるということ。

「私・・・知らなくて・・・」

 言わなければよかった。

 ザナドゥの父親が、何より大切にしている人がいるなんて。
言うべきではなかった。自分も捨てられたなんて。

「ジョルジュ」

 言葉を選ぶように、ザナドゥはゆっくりと言葉を続けた。

「お前が言っていたような、安っぽい恋愛なんかじゃない。
あいつらは、遥か昔から強い絆で結ばれているんだ」

 その事実は、苦しい現実。

「だからといって、あの男が母さんを死に追いやった事は許されるわけではない。
これは、お前の父親の責任ではない。あの男本人の、犯した罪だ。
だから、お前が気に病むことではない」

「ザナドゥ」

 また、涙がこみ上げてくる。

 安っぽい浮気心なんかではない。
二人の強い関係に、他の者は入れない、そういうことなのだ。
それが、彼らを愛した女でさえ。

 ザナドゥは歩き出し、ジョルジュは無言でその後を追った。

 

 二人は無言で歩き続け、やがて壊れた壁のところまで来た。
そこで一度、ザナドゥは足を止めた。

「オレの無断外泊は日常茶飯事だ。だが、お前が一緒だと話がややこしくなる」

 きっぱりと断られ、ジョルジュは戸惑う。誘ったのは、自分なのに。

「しばらく来ない方がいい」

 怒っているのだろうか。やはり。

 どうしようもない自己嫌悪に、俯いて眉を寄せる。

「ヘルガが心配だ。お前から、謝っておいてくれ」

 こくり、とジョルジュは頷く。
ザナドゥは振り向きもしないで、壁の残骸を越えていった。

 その背中を見送りながら、ジョルジュは思った。

 ここに、越えられない壁がある。

 自分は、壁を越えてザナドゥに追いすがる事はできない。

 ザナドゥの抱えている闇が、あまりに重すぎて。

 今はまだ、ザナドゥの心の壁を乗り越える事が、できない。

 

 

 

 乗り越えなければならない壁は、自分の中にもある。

 それは、父という存在。

 父の中で、スコルピオンという男はあまりに存在が大きく、自分の居場所がない。

 それを、どう受け止めればいいのか。
どう理解し、どう自分を位置づけていけばよいのか。

 重い足取りで屋敷に戻る。

 キッチンには誰もおらず、テーブルの上には血痕が残っている。

 ジョルジュは階段を上がり、父の寝室を覗いた。
そこにも誰もいない。なら、居場所はひとつ。
すぐ隣のスコルピオンの寝室はドアが開け放たれている。
ジョルジュは、そのドアの前に立った。

「・・・おかえり」

 疲れたような、沈んだ声。

 ジョルジュはまた、どうしようもない絶望感に襲われる。

 スコルピオンのベッドの上で、ヘルガはスコルピオンの膝に頭を乗せて眠っていた。

「帰ってきてくれて、よかった」

 それは、本心だろうか。
ヘルガを膝に乗せたスコルピオンは、ジョルジュを探すつもりもなかっただろう。
しょせん、ジョルジュは他人で、無関係なのだから。

 冷めた面持ちで見つめるジョルジュに、スコルピオンはふとため息をつく。

「二日、寝ていないんだ」

 そう言いながら、スコルピオンはヘルガの髪を撫でる。

「昨夜は俺も仕事で戻れなかったし。また、何もかも押し付けてしまった」

「・・・お父さん、手の方、大丈夫、なんですか」

 切れ切れに言葉を出す。
ちらりと見えるヘルガの手には包帯が巻かれており、そこに血もにじんでいる。

「自分で縫ったよ。
大丈夫だと本人は言っていたが、
抗生物質と鎮痛剤に睡眠導入剤を混ぜて飲ませた。
そうでもしなければ、また飛び出していく」

 屋敷を逃げ出した息子より、あなたはその人のことが大切なんですね。
絶望的な問いかけは、言葉にならない。

 そう、あなたたちの関係には、誰も入れない。

「・・・ザナドゥは・・・」

「居場所はわかった。法的な手続きは、俺がしよう。
すまなかったな、ジョルジュ」

 そんなことを聞いているんじゃない。そんなことが聞きたいんじゃない。

 ジョルジュは首を横に振る。

「ザナドゥが、見つからない方がよかったんじゃないですか。
お父さんのためにも。おじさんのためにも」

「いいや。ちゃんと会って謝罪をしなければならなかった。
マレーネに会うことはできなかったが、ザナドゥには償いをしたい」

「どんな償いをするっているんですか。目の前で、死んでみせる?」

 ふ、とスコルピオンが悲しげな笑みをつくる。

「それで、俺がマレーネにしたことが償えるなら、それでもいい。
俺の財産も、地位も権力も、何もかも、差し出そう」

「それで、何を謝るんですか?」

「俺が・・・ヘルガを愛しているという事」

 目の前が真っ暗になり、ジョルジュはドアに寄りかかった。

 最初から、好きになんかなっちゃいけない人だったんだ。

「・・・・・・いけません、スコルピオン。
私は、あなたを死なせません。何があっても」

 擦れる声に、ジョルジュもスコルピオンも、ヘルガを見た。
ヘルガはもぞもぞと動いて、なんとか頭を持ち上げた。

「寝ていなかったのか?」

「眠いです。ものすごく」

 けだるげに体を起こす。

「お・・・父さん・・・」

 半分目を閉じたまま、ヘルガはジョルジュを見て、力ない微笑をつくった。

「よかった、帰ってきてくれて。ザナドゥは・・・ちゃんと、帰れましたか?」

「はい。ヘルガに謝っておいてくれって」

「・・・そう。優しい子ですね。本当に」

 スコルピオンに支えられ、ヘルガは座った。

「私・・・謝らないと。ジョルジュにも、あの子にも・・・。
私がもっと・・・自分をコントロールできていれば・・・・」

 そんな痛々しい姿で謝られても、よけいに惨めになるだけだ。

「いいです! そんなこと! それより、お父さんは寝てください。
お父さんが倒れたら、今度は私が悪者になってしまいます」

 無理矢理笑みを作ったまま、ヘルガは崩れるようにベッドに倒れこむ。
スコルピオンは、それをそっと支えた。

「スコルピオン・・・私は・・・大丈夫ですから、仕事に戻ってください。
さっきは・・・怒鳴ったりして、ごめんなさい」

 なんでそんなに謝ってばかりいるのか。

「すまない、ヘルガ、夜には戻る」

 青ざめた恋人の瞼にキスをし、スコルピオンは立ち上がって部屋を出た。
ジョルジュとすれ違うとき、その肩に手を置き、

「ヘルガを見てやっててくれ」

 と、申し訳なさそうに言って。

 スコルピオンが出て行った後、
ヘルガは横たわったまま、「はあ」とため息をつく。

「ジョルジュ・・・お願いです。ここにいてください」

 眉を寄せたまま、父親の横たわるベッドに近付く。
ヘルガは怪我をしていない方の手を差し出した。

「ここに、いて・・・ください。ひとりに・・・なりたくない」

 ずるい人。

 ジョルジュは、父の本当の姿を、初めて知った。

 あの人、スコルピオンしか愛していないくせに。
そうやって弱いところを見せられたら、手を貸したくなってしまう。

 ジョルジュはベッドサイドに座り、ヘルガの手に触れた。

「・・・お母さんにも、同じことを言ったんですね?」

 答える代わりに、静かな寝息を零す。

 ずるい人。

 ジョルジュは唇をかみ締め、父の手を握った。暖かい手。
驚くほど力強いのに、儚げに見える。

 ずるい人。

 ジョルジュの母は、全てを理解して、この男を愛したのだ。

 決して、自分のものにならないとわかっていて。

 それでも、愛せずにはいられなかった。

 ジョルジュは、母の気持ちを思う。

 自分を、愛してくれなくてもいい。

 ただ、

「もっと、幸せそうにして」

 とたんに疲労感が湧いてきて、ジョルジュはヘルガの隣に体を滑り込ませた。

 父の体温を感じながら、目を閉じる。

 

 いいよ、もう。

 あの人の隣でしか生きられないのなら、そうすればいい。

 でも、あの人の罪をかぶる事はない。

「ザナドゥ・・・」

 ボ ク が、ザ ナ ド ゥ を 止 め る か ら ・・・。