ジョルジュはゆっくりと目を開け、腕を下ろした。

 ザナドゥはまだ、切れ切れに何か叫んでいる。

 それよりもジョルジュの気を引いたのは、目の前で立ち尽くしている父の姿だった。

「お父・・・さん?」

 全身を小刻みに震わせ、テーブルにつかまってやっと立っているような状態。

「お父さん?」

 声をかけ、そっとその腕に触れる。と、ヘルガは大粒の涙をぼろぼろと零した。

「私・・・私、酷いことを・・・してしまった。
私、マレーネさんを・・・死なせてしまった」

 震える声でそう言うと、ヘルガは両手で顔を覆って、うずくまってしまった。

「・・・私が、スコルピオンを引きとめた・・・。失いたくなかった・・・。
私が、マレーネさんを死なせてしまった!」

 肩を震わせ、嗚咽を漏らす。

 感情を噴出させる、痛々しい姿の父を見るのは、初めてだった。

 ずっと、父は苦しんでいたのだ。

 自分を責め続けていたのだ。

 ジョルジュは、こみ上げてくる涙を、ぐっと押し戻した。

 これが、現実。

 ジョルジュの知らなかった、秘密。

「違います!!」

 声を荒げ、ジョルジュは叫んだ。

「違います! お父さん! 
ザナドゥのお母さんを殺したのは、東の衛兵です! 
お父さんが殺したんじゃない! 
そんなふうに、自分を責めてはダメです!!」

 涙にぬれた顔を、ヘルガはそっと上げた。

「お母さんは、お父さんに幸せになってもらいたかった。
だから、私のこともお父さんには言わなかった。
お母さんは、お父さんがドイツで幸せに暮らしているって、
そうなってもらいたいって、思っているんです! 
だって、お母さんは、お父さんの事が好きだから。
お父さんがそんな風に自分のことを責めて泣いていたら、
お母さんが一人で私を生んで育てた意味がないじゃないですか! 
お父さんがそうやって自分のことを責めたら、
私とお母さんのしてきたことが無意味になってしまいます! 
お父さんがお母さんに何らかの償いをしたいと思っているなら、
そんな風に自分を責めちゃダメなんです! 
幸せにしてなきゃ、ダメなんです!!」

 ジョルジュを見つめるヘルガの瞳からは、次から次へと涙が溢れている。

「私の事なんか、愛してくれなくてもいい。
その代わり、お父さんは幸せにしていて、
私の憎むべき相手になっていなきゃ、ダメです!」

 ぽろり、と、堪えきれない涙がジョルジュの頬を伝う。

「おじさんだって、そうです。
おじさんを憎んでいるから、ザナドゥは強くなれた。
独りぼっちでも生きてこれた。だから、・・・・だから!」

 すっとヘルガの手が伸びて、ジョルジュを抱きしめた。
すすり泣きながらも、初めて、しっかりとジョルジュを抱きしめた。

 温かい腕。

 ジョルジュは抱き返す代わりに、父の腕を振り解いた。

「・・・ごめんなさい。私のこと、嫌いなんですよね」

 ヘルガがわずかに微笑む。

「目の前で泣かれたら、嫌いになれないじゃないですか」

 ふう、と大きくヘルガが深呼吸をする。

「ごめんなさい。・・・ありがとう、ジョルジュ」

 泣き疲れた体に酸素を取り込むように、
ヘルガはゆっくりと何度か深呼吸をした。

 涙は、止まっていた。

「ジョルジュ、
スコルピオンがマレーネさんと本気で結婚をしようとしてたことは、
知っておいてください。スコルピオンは、私より彼女を選んだんです」

「だから、お父さんはアメリカでお母さんと付き合ったのでしょう?」

「キャサリンにふられたのは、私の方です」

 そうだろう。ジョルジュは思う。母は、本気でこの人のことが好きだった。
だから、誰かの代わりに愛されることを、拒んだのだ。
本気で好きな、この人のために。
この人の愛情は、真っ直ぐすぎて、彼女の思いを察し得なかったのだ。

 ヘルガは、やっと立ち上がった。

「食事の仕度をします。手伝ってください。
おなかがすいたでしょう? 一晩中、あんな瓦礫の中にいて」

 穏やかさを取り戻した父の言葉に、
ジョルジュは昨夜から何も食べていない事を思い出した。

 

 

 

 買い置きのハムやソーセージやパン。
それに、瓶詰めのザワークラフトをテーブルに並べる。
そういえば、父はジョルジュと二人きりのときは、
アメリカ流の食事を用意した。
二つの文化を、上手く使い分けていた。
ジョルジュは、これからはもっとドイツ風の食事に慣れようと思った。

 食事の仕度が済み、ジョルジュはヘルガとあの部屋に戻った。
スコルピオンは黙ってうなだれており、ザナドゥは叫び疲れて息を荒げている。

「食事の仕度をしました。ザナドゥ、どうか食べていってください。
私の息子が、お世話になったのですから」

 膝を落したヘルガを、ザナドゥは見た。
先ほどまでの切羽詰った形相はなくなっている。
疲れ果て、青ざめてはいるが、穏やかに微笑んでいる。

「お願いです。私に、父親の役目を果たさせてください」

 何を考えているのか。睨もうとするも、ザナドゥも疲れきっていた。

「せめて、飲み物だけでも」

 優しくザナドゥの手を取る。その手は、華奢で、やわらかく、暖かい。
疲れ、どこか悲しみに彩られたその微笑みは、ザナドゥに母を思い起こさせた。
ふっと息を吐き捨て、視線を床に落す。
そして、そっと手を引くヘルガに、ザナドゥは素直に従った。

 そんな二人を見ているスコルピオンに、ジョルジュが触れる。

「私、おなかがすいたんです」

 投げやりで子供じみた言葉使い。
スコルピオンは引きつるように唇に笑みをつくり、ジョルジュの肩に手を置いた。

 ジョルジュは、スコルピオンが優しかったわけを悟った。
スコルピオンは、ジョルジュの中に自分の息子を投影していたのだ。

 だからこそ、ジョルジュはわざと子供っぽい仕草でスコルピオンの袖口を掴み、
キッチンへと引っ張っていった。

 

 ダイニングテーブルに、ヘルガとスコルピオンは並んで座り、
ヘルガの正面にザナドゥが、その隣にジョルジュが座った。

 ありきたりで一般的な簡易料理。
ヘルガはナイフで肉を切り分け、ザナドゥの前に、そしてジョルジュの前に置いた。

「りんごのジュースでいいですか? それしか置いていなくて」

 パンや野菜、ジュースの入ったグラスをザナドゥの前に置く。
ザナドゥは俯いたまま答えない。
答えないザナドゥを、ヘルガは気にしない様子で仕度を進めた。
ジョルジュは横目でザナドゥをちらちら見るも、かける言葉がない。
スコルピオンも押し黙ったままだ。重い沈黙の中で、食器の音だけが響いた。

「ザナドゥ、食事の前にお祈りが必要ですか?」

 一応、クリスチャンを意識して訊ねる。

「いらない」

 ザナドゥはボソッと答えた。

 昔、母と暮らしていたときは、事あるごとに神に祈った。
もちろん、食事の前も。
だが、母が殺されてから、ザナドゥは神に祈った事など一度もない。
教会で暮らしていても。シスターにどれだけ叱られても。

 神など、存在しない。

「そうですか。では、食べてください。お口に合うとよいですけど」

 ヘルガはまたにっこりと微笑んだ。

 こうして食事を目の前にすると、空腹であった事を思い出す。
ザナドゥは顔を上げないまま、黙々と食事を口に運んだ。
ジョルジュも。スコルピオンは礼儀的に一口二口、口に運んだだけで、
物思いに耽るように押し黙っている。
食欲がないのはヘルガも同じだが、スコルピオンと違い、
それ相応に食べるふりだけはした。

 目の前の皿が空になると、ザナドゥは俯いたまま腕を下ろした。

「もっと食べますか?」

 ヘルガが小首を傾げて訊ねる。ザナドゥは首を横に振った。
そして、顔を上げて、スコルピオンを見た。
スコルピオンは、食事にほとんど手をつけないまま、ザナドゥを見つめている。

「・・・何か、言えよ」

 手のひらを握り締めて、ザナドゥが口を開く。

「何を言っても、許してはもらえないのだろうな」

 目を細めてスコルピオンが応える。
ザナドゥは眉を寄せ、悲痛に見える笑みをつくった。

「当たり前だ! お前に謝罪をする権利などない! 
もし本当に謝りたいのなら、今ここで死んで見せろ!!」

 勢いよくザナドゥが立ち上がる。勢いで椅子が後ろに倒れる。
ジョルジュはビクッと身を振るわせた。

「オレが殺してやる! お前が母さんにしたように!」

 ダメ! ジョルジュは叫ぼうとして凍りついた。

 ザナドゥは目の前にあったナイフを掴むと、
テーブルを乗り越えてスコルピオンの顔に突きたてた。

「!!」

 表情を変えず、じっとザナドゥを凝視したままのスコルピオンの、
眉間の数センチ手前でナイフの切っ先は止まった。

 ジョルジュは思わず立ち上がり、両手で口を押さえた。
頭から血の気が引いていく。

 スコルピオンの目の前で、ナイフの刃を掴んでいたのは、ヘルガだった。

 片手に水の入ったグラスを持ったまま、平然と。

 まるで、落ちそうになったフォークを拾うかのように。

 穏やかな表情を崩さないまま、ナイフの刃を握っている。

 やがて、ヘルガはゆっくりとグラスを置き、ザナドゥを見た。

「ザナドゥ、あなたは間違っています。
たとえどんな理由があろうと、たとえ相手が誰であろうと、
あなたがこんな風に人を傷つけることを、
あなたのお母様は喜ばないでしょう」

 スコルピオンを睨んでいたザナドゥの表情が抜ける。

「あなたは強くて、とても優しい子です。
私のジョルジュに、一晩中付き合ってくれたのですから。
あなたのお母様は、きっとあなたを誇りに思うでしょう。
ですから、こんな風に人を傷つけてはいけません。
もっと・・・他の方法があると思います」

 子供に向ける、ヘルガの笑みは優しい。

 ナイフの刃を伝い、ルビーのような真っ赤な液体が滴り落ちる。

 ザナドゥは唇を振るわせた。ぽたり、とテーブルに小さな赤い池ができる。

「その手を、離してくれますね?」

 ぽたり、ぽたり、と。

(お母さん)

 ザナドゥは、震える指をゆっくりと開いた。

「ありがとう」

 また、ヘルガが笑う。

(お母さん、どうして、そんなふうに、さみしそうに笑うの?)

 ザナドゥはテーブルを蹴飛ばし、キッチンを走り出ていった。

「あ」

 ジョルジュはただうろたえ、
ナイフを握ったままの父と、ザナドゥが出て行ったドアを見比べる。

「ジョルジュ、追いかけるのはあなたの役目です」

 穏やかな父の言葉に、ジョルジュも走ってザナドゥの後を追った。

 子供たちが去ると、ヘルガは指を開いてナイフを落した。
スコルピオンが慌ててその手を取る。

「・・・・ヘルガ」

「大丈夫です。皮膚を少し切っただけですから。
それに、利き手でもありませんし。
すみませんが、私の鞄を持ってきてください。
簡単な道具なら入っていますから」

 スコルピオンを見て、微笑もうとするが、痛みに顔が歪む。
切れた手のひらをぎゅっと握り、肩まで上げて出血を抑える。

「大丈夫です」

 もう一度言って、微笑む。

 スコルピオンはヘルガの瞼にキスをし、立ち上がった。