溜め込んでいた感情を吐き出し、ジョルジュは冷静さを取り戻していた。

 静かな夜の闇の中、瓦礫の中で寄り添う子供たち。

 ひっそりと座り込んでいる二人の子供に、気付く大人はいない。

 

 陽がどっぷりと暮れ、街が闇に包まれ、
次に月の明かりに照らし出されるまで、
ジョルジュとザナドゥは口を閉じたままでいた。
ただ、肩を触れ合わせているだけ。

 淡い月の明かりが、優しく彼らを包む頃、
二人はポツリポツリと会話を交わし始めた。

 ザナドゥは、誰も信用していなかったし、
誰も自分に近づけるつもりもなかった。
大人の同情は、うざったいだけ。
誰にも自分のことは話さなかったし、話すつもりもなかった。

 なのに、ジョルジュの前では、思いが零れる。
誰にも話さなかった母親の事などが、
小さな水滴のように一粒、また一粒と零れ落ちた。

 ジョルジュは、ザナドゥが知っている他の連中とは違う。
確かに、夕刻は感情的になり、泣きながらザナドゥに助けを求めてきた。
だがその感情を出し切ってしまうと、本来の強さが垣間見れた。

 親を失い、あるいは見捨てられた子供は、卑屈になりやすい。
自暴自棄になったり、周囲に当り散らしたり、ひたすら同情を求めたり。
だが、ジョルジュは違う。
いったん感情の波が去ってしまうと、それから先のことを見つめた。

 ザナドゥに対しても、必要以上の同情を示したりはしなかった。

 ジョルジュはアメリカで生まれ育ち、ドイツの世情に興味を持ってはいない。
が、知識としての歴史や政情には詳しかった。
おおよそ、子供が知るべき学校で習う事以上の知識を持っている。
だから、ザナドゥの母親が銃殺された件についても、
旧東ドイツの政情から客観的に事実を受け入れた。
感情的に同情するわけではないジョルジュに、
ザナドゥは少しずつ、あの惨劇の話をした。
ジョルジュの表情は真剣で、当時の悲惨な世情を非難した。

 あまり話をしないザナドゥが、ジョルジュに対して口を開いたのには、
もうひとつ理由がある。それは、ボクシングだ。

 ザナドゥは強い。誰よりも強く、誰もがそれを認める。
ただ見た目だけでそれを崇拝するのではなく、
ジョルジュはそれを科学的に分析してみせ、
ザナドゥが強い理由を理論的に話し、もっと強くなれると強調した。
ジョルジュは、ザナドゥの知る誰より、ボクシングに精通していた。
ルールや取り仕切る団体についても。
ジョルジュはそれらを、父の昔のノートから学び取っていた。
難解な公式を自分のものにし、足りない部分は自分で調べ、
独自の理論や法則を生み出した。

 ジョルジュが古いノートを研究する気になったのは、ザナドゥのためだった。
それは、ヘルガが初めてスコルピオンを見たとき、
そこに自身の理論の完成系を見出したように、
ジョルジュもまた、ザナドゥの中に理想を見出していた。

 漠然とした賞賛ではない。
瞳を輝かせて熱っぽく語るジョルジュに、
ザナドゥは、彼と共にいれば本当に世界を目指せると思えた。

 

 ジョルジュは、逃げたかったわけではない。

 自分の居場所を確立したかったのだ。

 

 ザナドゥはジョルジュの理想、そのものだった。

 ザナドゥが自分をそばに置いてくれるなら、
自分はザナドゥのために何だってするだろう。
目に見える目的があれば、強くなれる。

 闇は冷たい孤独の氷を溶かし、夜露のようにきらきら輝く宝石に変えた。

 

 

 

 東の空が、白い光を照らし始める。

 闇は去りつつあった。

 深淵は明るい朝の光に彩られる。

 闇は透明な水色に変わりつつあった。

 世界が明けたのだ。

 

 ジョルジュはザナドゥの肩に寄りかかり、うつらうつら夢の狭間を漂っている。
ザナドゥはジョルジュに肩を貸したまま、明けていく空を眺めた。

 ジョルジュは、ザナドゥの心の闇に、一筋の光を投げかけた。

 鳥が、朝を告げながら高いところを飛んでいく。

 この出会いは、転機、になるだろう。

 ジョルジュにとっても、ザナドゥにとっても。

 

 街が目覚め始める頃、ザナドゥは車の排気音に気がついた。
一台の車が近付いてくる。何かを探しているように、ゆっくりと。
ありきたりな旧式のビートル。車は路上に停まり、中から一人の男が出てきた。
ザナドゥがぼんやりと見つめる。
出てきた男は、華奢で、綺麗な顔立ちをしているが、やつれているように見えた。
眉を寄せて、周囲を見回している。

 ザナドゥの隣で、ジョルジュが身じろぎをして顔を上げた。

 そして、数メートル離れたところにいた車の男と目が合う。
ジョルジュは悲鳴でも上げそうな勢いで息を吸い込んだ。
が、ジョルジュが声を出す前に男が走り寄ってきた。

「ジョルジュ! こんなところにいたんですか!」

 肩を震わせ、息を切らせている。

「探したんですよ、帰ってこないから・・・」

 ジョルジュは開いた唇を震わせ、息を呑んだ。

「・・・・お父さん・・・」

 ふ、とザナドゥは息を吐き、ジョルジュの肩に手を置いた。

「帰れよ。一晩中探してくれる親がいるんだから」

 困惑したように、ジョルジュがザナドゥを見る。
ザナドゥは立ち上がり、ジョルジュの父親を真っ直ぐ見上げた。

「悪かったな、オレが連れ出したんだ」

「何を言うんですか、ザナドゥ! 私が一緒にいて欲しいって・・・」

 かばってくれるザナドゥをジョルジュは制し、
叱られるのを覚悟してザナドゥの前に立つ。

「お父さん、ザナドゥは悪くないんです。私が・・・」

 なんとか言い訳をしようとする。
が、激怒しているかと思われたヘルガは、呆然とザナドゥを見つめていた。

「・・・お父さん?」

 やつれたヘルガの表情が、それにも増して青ざめる。
ジョルジュは、父がこのまま卒倒してしまうのではないかと思われた。

「・・・ザナドゥ?」

 目を見開いたヘルガが、上ずった声を出す。

「マレーネさんの・・・・?」

「母さんを知っているのか?」

 ザナドゥは顔をしかめた。
ヘルガは両手で口を覆い、ふらりと一歩後退った。
倒れるんじゃないかと、思わずジョルジュがヘルガの袖口を掴む。

「と・・・・」

「見つけた・・・! ザナドゥ! やっと見つけました!」

 何の事かと、ジョルジュとザナドゥが顔を見合わせる。
と、ヘルガは突然ザナドゥの腕を強く掴んだ。

「帰りましょう、ザナドゥ、あなたの家に」

 突然の事に驚き、恐怖さえ感じてザナドゥは身を引く。
だが、華奢に見えるこの男の力は強く、びくともしない。

「ジョルジュ、あなたも帰りますよ」

 もう片方の手で、ヘルガはジョルジュの腕も掴む。

「離して下さい、お父さん!」

 ジョルジュの声はヘルガには届いていないようで、
無視をしてどんどんと歩いていく。
抵抗しようと試みるも、ジョルジュもザナドゥも引きずられるしかなかった。

「離せよ! お前、なんなんだ?!」

 ザナドゥが渾身の力で引っ張り返すと、さすがにヘルガは足を止めた。
振り向いたヘルガの表情に、ジョルジュはぞっとした。
青ざめ、目を見開き、唇を引きつらせるヘルガの表情は、
ジョルジュの知っている綺麗な顔をした父ではない。

「私は一晩中ジョルジュを探していましたが、
スコルピオンは・・・・あなたのお父さんは、もう何年もあなたを探していたんです」

 今度狼狽するのはザナドゥの方だった。

 

 

 

 ジョルジュとザナドゥは、狭いワーゲンの後部席に押し込まれた。
ヘルガは無言でエンジンをかけ、鋭い形相でハンドルを握る。

「・・・・どういうこと、なんですか?」

 恐る恐るジョルジュが口を開く。

「スコルピオンは、ずっと探していました。
自分の妻となるべき女性と、自分の息子を。
でも、旧東ドイツでは逃亡を企てたものは政治犯。
ましてやそれで銃殺された者は、遺体を秘密裏に処理され、
その存在さえ消し去られてしまう。
生きていた痕跡さえ、抹殺されてしまうんです」

 あ、とザナドゥは思わず声を上げた。それで合点がいく。
教会に送られた後、昔母と住んでいたアパートを訪ねたことがあった。
だが、そこにはもう見ず知らずの家族が住んでいて、
ザナドゥを知っているはずの近隣の者さえ硬く口を閉ざしていた。
マレーネとザナドゥは、政府により抹殺されてしまっていたのだ。

 ぎゅっと口を硬く閉じたザナドゥは、それ以降まったく口を開かなかった。
険悪な雰囲気に、ジョルジュも口を閉ざすしかなかった。

 ヘルガは、片手で器用に運転をしながら、携帯電話を開いた。
顔は正面を凝視したまま。

「スコルピオン? 見つけました! あなたの息子を! 
・・・今から屋敷に連れて帰ります! ・・・今すぐ帰ってきてください! 
・・・え? 商工会の会議?」

 目の前の信号が赤に変わり、ヘルガは勢いよく急ブレーキを踏んだ。

「クソジジイどもとのくだらない会議なんか、捨てなさい!!」

 初めて聞くヘルガの罵声に、ジョルジュは身を強張らせた。

 携帯を閉じ、助手席に投げ捨てると、ヘルガはぎりぎりと歯軋りをした。

 

 

 

 スコルピオンの屋敷の庭に車を乗り入れると、
ヘルガはガレージに車を入れることなく車を停めた。
肩で息をしながら車から降り、二人の少年を引きずるように車から出す。
強く掴まれる腕に痛みを感じ、ジョルジュは顔をしかめた。
が、抵抗できない。こんなにも、力が強い人だとは知らなかった。

 玄関に続く小道の両脇に、きれいにクリスマスローズが植えられている。
引きずられるように歩きながら、ザナドゥはその植物に目を留めた。

「・・・・・母さんの、好きな花だ」

 ザナドゥの言葉に、ヘルガが唇を噛むのを、ジョルジュは見た。

 鍵のかけられていない玄関を入る。

 ジョルジュがいつ帰ってきてもいいように、きっと鍵をかけなかったのだろう。

 リビングの隣にある、あの鍵のかけられた秘密の部屋の前で、
ヘルガはやっと足を止めた。そして、やっと二人を掴む手を離した。

「ザナドゥ、ここはあなたの家です」

 低く押し殺したように言う。ザナドゥはぎろりとヘルガを睨んだ。

「オレの家じゃない」

「マレーネさんのために植えられた花。
そしてここが、マレーネさんのために用意された部屋」

 ジョルジュは眉をしかめた。

「この部屋は、鍵が・・・・」

「鍵なんか」

 ドアノブを睨みつけるように見つめていたヘルガは、力いっぱいそこを蹴った。

 思わずジョルジュは短い悲鳴を押し殺す。

「こうすれば壊れます」

 二度目に力いっぱい蹴ると、ドアは何かの壊れるような音をさせて、内側に開いた。

 

 秘密の部屋。

 開けてはならない、魔法の扉。

 

 ジョルジュは呆然と立ち尽くした。

 ヘルガがザナドゥの背を押し、部屋に入る。

 それは、綺麗な部屋だった。何年も放置され、埃が積もっていたとしても。

 とても綺麗な部屋だった。

 部屋の中央に、高価なグランドピアノが置いてある。
その輝きは失われているが、その存在感は失われていなかった。

 ヘルガは分厚いカーテンを引き、部屋に明かりを取り入れた。

 ザナドゥは、ピアノの前で立ち尽くす。
閉じられたピアノの上に、無造作に並べられた写真。

 懐かしい、母の写真。

 母の膝の上に乗っているのは、間違いなく、幼い頃の自分。

 色あせ、埃の積もった写真を、ザナドゥは手に取った。

「・・・・母さん・・・・」

 言葉を失ったジョルジュは、唇を噛む。

 ヘルガは部屋の窓を開け、外の空気を取り入れた。
優しい風が、埃っぽい重い空気を流していく。

 窓の外には、クリスマスローズの群生。

 冬には、きっと綺麗に咲き揃う。

 開けられた窓から車のエンジン音と、それに続くドアを勢いよく閉める音。
ばたばたと忙しない足音がして、スコルピオンが部屋に駆け込んできた。

 ザナドゥが顔を上げる。

 スコルピオンは、肩で息をしながらザナドゥを見た。

「・・・・・・」

 目を見開き、眉を寄せ、困惑したようにザナドゥを見つめる。
同じように、ザナドゥもスコルピオンを見つめた。

 スコルピオンは、言葉を失っていた。

 ザナドゥもまた。

 窓際から戻ってきたヘルガは、ジョルジュの腕を掴んで部屋を出た。
ジョルジュは何度もザナドゥを振り返る。
リビングを横切り、二人がキッチンに入る頃、我に返ったザナドゥの叫びが聞こえた。

 父を呪う言葉。

 ジョルジュは目を閉じ、耳を覆った。