ちゃんと、できたと思う。 ちゃんと朝起きて、「おはようございます」の挨拶をし、 朝食を食べ、「行ってきます」と屋敷を出た。 微笑む事はできなかったけれど。 ジョルジュはいつものように学校に行き、 退屈な授業をやり過ごし、放課後すぐにザナドゥのいる教会へ向かった。 彼はいつも取り巻きに囲まれている。 だが、彼自身はいつも一人だ。 大勢の中であっても、常に孤独を身にまとっている。 仲間と談笑する事など、ない。 一人黙々と体を動かすザナドゥを、 ジョルジュはしばらく離れた所から眺めていた。 彼はいつも体を動かしている。 ザナドゥのボクシングは、オスカーのそれとは違う。 オスカーは技術を優先させていた。 しかしザナドゥのボクシングは、喧嘩の延長のようなものだった。 もしジョルジュが若い頃のスコルピオンを知っていれば、 そこに類似点を見出しただろう。 何かを振り払うように、何かを打ち壊そうとしているかのように、 ザナドゥは拳を繰り出す。 夕刻まで、ジョルジュは黙ってザナドゥを眺めていた。 彼の体の動きには、惚れ惚れとさせられる。 いくら眺めていても、飽きる事はない。 家のある者たちは家に帰り、教会に住む者たちも忙しく動き始める。 ザナドゥが一人になったのを見計らって、ジョルジュは彼に近付いた。 「ずっとあそこにいたのか」 視線を合わせないまま、ザナドゥが言う。 気付いててくれたんだ、とジョルジュは微笑を浮かべた。 「家に、帰った方がいい」 「帰りません。あそこは、私の家ではありませんし」 眉を寄せて、ザナドゥがジョルジュを見る。 ジョルジュは決意を表すかのように、ぎゅっと唇を結んで、ザナドゥを見つめた。 「親が心配しているだろう」 「あの人は、私のことなど眼中にありませんから。 いない方がいいんです。 ザナドゥとずっと一緒にいたいけど、迷惑ならどこかに行きます」 「・・・どこかとは?」 「わからないけど、ここではないどこか、です」 つまり、家出、というわけだ。 暮れていく空を見上げ、ザナドゥは教会を眺め、そして、 「迷惑では、ない」 と呟いた。ジョルジュの顔がぱっと明るくなる。 「ここも、オレの家ではないからな」 そう言って、ザナドゥは歩き出した。 背後から、ザナドゥを一番慕っているジャコビニがザナドゥを呼ぶ。 ザナドゥは一度振り向き、 「適当に誤魔化しておいてくれ」 そう言うと、また歩き出した。 「ザナドゥ! またシスターに罰を受けるよ!」 「慣れている」 片手を挙げて一振りしただけで、ザナドゥは敷地を出て行った。 ジョルジュは小走りにザナドゥの後をついて行った。 行き先を告げず、振り向きもしない。 しかし、時折歩調を緩めてジョルジュが追いつくをの待つ。 この人の、優しさなんだ。ジョルジュは胸に暖かいものを感じた。 ザナドゥは、壊れた壁の手前で足を止めた。 ほんの数ヶ月前まで、民衆を威圧するように立っていた壁。 今では落書きがされ、見る影もなく無残に打ち壊されている。 この壁を、西側から眺めた事は何度かあった。さして興味は引かなかったが。 西側から見る壁は、まるでひとつのオブジェでしかなかった。 しかしこちら側からは違う。監視塔の跡、鉄条網の残骸。 崩れたコンクリートの上に、しおれた一輪の花が置いてあった。 ザナドゥはその前で足を止めると、 ここまで歩いてくる途中で摘んだ小さな花を置いた。 「オレの母親は、ここで銃殺された」 ぼそり、と呟く。ジョルジュは、ごくりと息を飲んだ。 夕闇が街を包む。 監視塔の残骸の陰に、二人の子供は並んで座っていた。 ザナドゥは、自分が置いた花をじっと見つめている。 そんなザナドゥの横顔を、ジョルジュは黙って見つめた。 ザナドゥに最初に出会ったとき、なぜか初めてという気がしなかった。 こうしてザナドゥの横顔を見ながら、ジョルジュはその理由に思い当たった。 スコルピオンだ。彼に、似ているのだ。 スコルピオンは時折、物思いに耽るように閉ざされた秘密の部屋のドアを見つめていた。 その横顔に、似ているのだ。 スコルピオンがそうしてドアを見つめていると、父は決まって視線を外した。 そんなスコルピオンを見たくはないというように。 父は、ドイツで幸せに優雅に暮らしているのだと思っていた。 だが実際は、そうではないのかもしれない。 いつも微笑んでいる父は、本当は何を考えているのかわからない。 生まれてからずっと過ごしてきた ニューヨークのマンションの事は思い出さないのに、 ほんのひと時暮らしただけの、あの屋敷の事はまざまざと思い出される。 それだけに、「愛せない」と言った父の言葉は、ジョルジュにひどい傷を負わせた。 スコルピオンがどう取り繕おうと。 思い出すと、また涙がこみ上げてくる。 堪えるように鼻をすすり、目頭をこする。 一度閉じた目を開けると、ザナドゥと視線が合った。 ザナドゥは何も言わず、ジョルジュを見つめている。 ザナドゥに見つめられ、ジョルジュは堰を切ったように涙を零した。 「・・・私、愛していないと言われたんです。父に。 愛されていないのはわかっていたけど」 ジョルジュはこれまでの経緯を、切れ切れに話し始めた。 「父は、医者です。学生時代、アメリカに留学してて、私の母と。 ・・・その後、母が妊娠したのも知らずにドイツに帰りました。 父は、ドイツに恋人がいたんです。最初は、単なる興味でした。 自分の父親が、どんな人間なのか、知りたかった。 それで、父の暮らすベルリンまで来て。 あてつけに、ここに住みたいって言ったら、いいって。 それで、ベルリンに。 母は父の事を愛していたけど、父は母の事を愛してはいない。 友人だと言うだけ。 なら、どうして私は生まれたのでしょうか。 あんまり無責任すぎます。 一緒に住んでても、父は私になんか興味を示さない。 父親の責任を果たしているだけで、自分の息子を愛してなんかいないんです。 本当は、いない方がよかったです。私には、帰る場所がないんです」 じっとジョルジュの話を聞いていたザナドゥは、ふと視線を花に移した。 「・・・母親が、生きている」 「でも・・・」 でも、とジョルジュは身を乗り出した。 「ニューヨークには帰りたくないんです。 私、ザナドゥと一緒にいたいって、思ったんです。 よくわからないけど。自分でもどうしらいいかわからないんです。 父の事は嫌いだけど、ニューヨークに帰ったら、 ザナドゥと会えなくなってしまいます」 どうしたらいいかなんて、わからない。 だけど、アメリカに帰るという選択肢だけは想像に入らない。 「・・・なぜ、オレなんだ?」 陽が沈み、街灯の明かりが灯る。 人工的な薄明かりの中、ザナドゥの横顔は感情が伺えない。 「わかりません。でも、初めて会ったときから・・・ 私、ザナドゥのそばにいたいって、思ったんです」 ふう、とザナドゥは肩を落した。 しばらくの沈黙。 時間だけが、ゆっくりと流れていく。 「・・・オレの母親は、あいつの事を、信じていた。 必ず迎えに来ると。 だが、あいつが迎えに来る事はなかった。 母さんは、オレの手を引いて壁を越えようとして、銃で撃たれて死んだ」 俯いたまま呟いたザナドゥは、顔を上げてジョルジュを見た。 「あいつは、母さんを愛してなんか、いなかった」 ザナドゥの視線は、怒りと悲しみを帯びている。 膝を抱えるザナドゥの手に、ジョルジュはそっと触れた。 「オレは、あいつをいつか殺してやりたい」 低く呟くザナドゥに、ジョルジュはその腕に額を乗せた。 「・・・だから、あなたは強いんですね。私も強くなりたい。 迷いがなくなるほど、強くなりたい。一緒にいても、いいですか?」 腕に触れてくるジョルジュの手に、ザナドゥはそっと自分の手を重ねた。 夜の闇が落ちてくる。 凍えるような冷たい言葉も、一緒にいれば怖くない。 得られなかった愛という偶像を、遠い雲の上から蔑み眺める。 「私・・・私、ずっとザナドゥのそばにいますから。 他の誰もがあなたから離れていっても、私はずっとザナドゥのそばにいますから」 他に行く場所がないから。 違う。 ここが自分の居場所だと決めたのだから。