ジョルジュのオスカーとの出会いはひとつの転機になった。 学校でトモダチを作ることはなかったが、 オスカーと、彼を慕って集まってくる同年代の少年たちとは親しくなった。 オスカーは、聖職者でありながら、有能なボクサーとのことだった。 ジョルジュも、彼を有能なボクサーと認めていた。 ジョルジュは、自分の父が(そして、その恋人が) かつての西ドイツJr.ボクシングのチャンピオンだということは、口にしなかった。 父がボクサーであったことは、父の口から話される事はない。 父は、自分のことはほとんど話さない。 ただ、屋根裏部屋を散策していたときに、その痕跡を見つけたのだ。 見つけた古いノートには、過去のJr.ボクサーのパンチが研究し尽くされていた。 難しい公式がびっしりと書き込まれていたので、 それがボクシングの研究ノートであると理解するのに、時間がかかった。 ジョルジュはその公式に魅了され、自分の中でそれを消化して行った。 そのことを父とスコルピオンに話すことはなかったけれど。 結果、アメリカに帰るという考えは、ジョルジュの中で押し込まれ、忘れ去られた。 それからしばらくして、ジョルジュに更に衝撃的な出会いがあった。 オスカーたちは、旧東ドイツでもっとも強いと噂される少年と対峙することになった。 壊されたベルリンの壁の前。現れた一人の少年と、彼に追随する少年たち。 少年は「ザナドゥ」と名乗った。 夏に咲くひまわりのように、明るく濃い金髪。年齢を感じさせない鋭い視線。 一目でジョルジュは魅了された。一目惚れ、という言葉は、存在するのだ。 驚くことに、オスカーはザナドゥ少年に追随することを誓った。 オスカーもまた、その少年の実力を、一目で見抜いたのだ。 ザナドゥは、壁の向こう側、旧東ベルリンにある教会を住まいとしていた。 ザナドゥだけではない。 彼に付き従う少年たちの何人かは、やはりそこで暮らす「孤児」だった。 孤児という存在は、ジョルジュにとっては驚きだ。 この近代社会において、両親を失った子供が、こんなふうに存在しているなんて。 改めて、この国の負の遺産を思う。 つい何ヶ月か前までは、この国は壁で分断され、 それを越えることは命がけのことだったのだ。 ザナドゥもまた、そうして親を失った孤児だった。 ザナドゥ少年の強さは、そこから来るのか。それは、賞賛にも値する。 ジョルジュは、幾度もザナドゥに会いに教会に出向いた。 自分という存在をザナドゥに知らしめたかったし、 彼の強さを、近くにいることで感じたかった。 彼の取り巻きは、西側の裕福な少年が出向いてくることを快く思いはしなかったが、 ザナドゥ本人はさして気に留める様子もない。 ただ、他の者達がジョルジュを邪険にすることを、言葉少なげに制しただけだった。 新たに出会った魅力的な少年の話を、父にすべきか、ジョルジュは迷っていた。 もともと、父とはそういう話はあまりしない。 もし母なら、毎日しつこいくらいに聞いてくる。 今日は何があったか、どんな勉強をしたか、友達はできたか、どんな遊びをするか。 しかし、父はジョルジュのそんな日常生活に興味を示さない。 ただ、「困ったことはないか」と時折訊ねるくらいだ。 実際、こうして友人たちに囲まれてみると、やはり父の愛情を疑いたくなってくる。 最初から、わかっていたはずだ。 父は、子供を望んでなどいなかった。自分は、愛されて生まれてきたわけではない。 父は親切だが、それと愛情は違う。 親に愛されないのなら、親を失ったザナドゥたちと同じだ。 むしろ自分は、ザナドゥたちの方に近いのだ。 なんとなく話しそびれる日々が続くうちに、別段話すつもりもなくなっていった。 「最近、帰りが遅いですけど、友達でもできたんですか」 夕食のとき、突然父から話を振られ、ジョルジュは口ごもった。 確か、オスカーと出会ったときは、そんな話をしたような気がする。 「・・・ええ、まあ」 今いる仲間たちの事を、話すべきだろうか。 「知り合いが・・・増えたんです。みんなで、ボクシングの話を」 ボクシング? ちらり、とヘルガの表情が強張る。 「ボクシングをやっているのですか?」 「真似事ですけど」 ヘルガはしばらくジョルジュを見つめ、ふと視線を外した。 「そうですか」 と、そっけなく。 「いけませんか?」 「いいえ。何か、好きな事を見つけられるのはよいことです。 それで友達ができるのも」 歯に何か挟まったような、もどかしい言葉。 父は、自分がボクサーだった事を息子が知っていると、知っているのだろうか。 何か、嫌な思い出でもあるのだろうか。 「お父さんは、ボクシングは嫌いですか?」 思い切って聞いてみる。ヘルガはあいまいに微笑んだだけで答えなかった。 「友達ができたんです。その、壁の向こうに」 切り出してみる。ヘルガはまた微笑む。 「そう。それはよかったですね。 統一されて、まだ間もないですから、生活習慣の差や偏見はまだ残っていると思います。 でも、あなたたち子供が仲良くできれば、 この国は本当の意味でひとつのなれるのでしょうね。 嬉しい事です。新しい友達を、大切にしてくださいね」 「友達と会っていると、勉強する時間が減りますけど」 「かまいませんよ。勉強など、いつでもどこでもできます。 それより、今友達といる時間の方が大切だと思います。 キャサリンも、きっとそう言うでしょう」 母の名前が出て、ちょっと嬉しくなる。 父が母を忘れていないというだけで、嬉しくなってしまうのは、きっと子供の証拠だ。 「お母さんに電話してきてもいいですか?」 「どうぞ。きっと喜びますよ。彼女はいつもあなたの心配をしていますから」 ジョルジュは子供らしい笑みを見せ、食事を急いで済ませると、 リビングの電話に走った。 母との電話は、いつも嵐のようだ。 ちゃんと食べているか、睡眠はとっているか、言葉に不自由はないか。 浴びせられる質問に、「大丈夫」「問題ない」とそっけなく答えていく。 ひとしきりの質問の雨の後、ジョルジュはやっと、友達ができた事、 すごく魅力的な少年に出会った事を報告した。 『帰って来る気、ないみたいね』 最後に母は、苦笑混じりに言った。 「今のところ」 その辺はあいまいに返答しておく。 今はまだ、ザナドゥとの出会いを大切にしておきたかった。 ザナドゥを、好きだと思う。 誰かを好きになるという感覚は、初めての経験だ。 でも、学校でも、夜勉強していても、ふとザナドゥのことを思い出す。 彼の表情や一挙手一投足。あまりしゃべらないが、その声も。 思い出している自分に気付くと、まるで恋でもしているみたいだと苦笑する。 オスカーや他の友人たちと出会ったときには、こんな感覚はなかった。 一緒にいて楽しいとは思うが、こんなふうに思い出すなんて。 深夜、読んでいた本から顔を上げ、ふとジョルジュは考えた。 父も、こんなふうに恋をしたのだろうか。 こんなふうに抱いている思いが、恋愛に変わる瞬間て、あるのだろうか。 友情と恋愛の境目は、どこにあるのだろうか。 ザナドゥは、自分をどう思っているのだろうか。 父は、どれだけスコルピオンという男を愛しているのだろうか。 視界の端に時計が目に入り、もう10時を過ぎている事に気付く。 就寝時間を過ぎている。もっとも、それで叱られる事はなかったけれど。 そういえば、父は今夜、急な夜勤が入ったと言っていた。 勤務予定の医者に急用ができたので、 深夜、スコルピオンが帰宅したら交代で出勤するのだと。 本当に忙しい人だ。 有能な外科医だと評価されているゆえ、期待され、必要とされる。 いつか自分も誰かに、そんなふうに必要とされるのだろうか。 ヘルガがスコルピオンという男に、 あれほどまでに必要とされ愛されているように、いつか自分も誰かに必要とされ、 愛されるようになるのだろうか。 自分の居場所を、見つける事ができるのだろうか。 物音がして、ジョルジュは耽っていた思いから引き戻される。 スコルピオンが、帰ってきたのだろう。 ってことは、父は今から出勤するのだろう。 こんな時間で、もうジョルジュは寝ていると思われているだろうから、 挨拶に出て行く必要はない。 それでも、ジョルジュはなんとなく立ち上がり、そっと自室を出た。 階段の上からリビングが見下ろせる。 手すりから顔を出して見下ろすと、案の定スコルピオンが帰宅していて、 ヘルガと対面していた。ヘルガは出勤用のスーツを着ている。 「明日の朝、ジョルジュが登校してから出勤する」 スコルピオンはそう言って、ヘルガをそっと抱き寄せた。 ヘルガもスコルピオンの胸に体を預ける。 「・・・行きたくない」 心もとない、ヘルガの声。 「どこにも行きたくない。ただ、あなたのそばにいたい」 スコルピオンはヘルガの髪をかき上げ、口づけをする。 「病院を辞めて、ずっとここにいてもいいんだぞ」 そっと囁いて、また唇を重ねる。 「あなたは、それを望まない」 囁きを返し、ヘルガはぎゅっとスコルピオンにしがみつく。 甘える幼子のようなヘルガの髪を、スコルピオンは愛しげに撫でる。 「・・・もう少し・・・あと少し、ジョルジュが成長すれば、 あなたとの時間が作れる」 階段の上で眺めていたジョルジュは、はっと息を呑んだ。 「子供の成長は早い」 スコルピオンはヘルガの額に、瞼に、髪に、頬に、キスをしてそっと体を離した。 「私は・・・あなたしか愛せない」 ヘルガの呟きは、冷たい氷の粒となって、夜の帳に降り積もる。 ジョルジュは震える指を握り締め、部屋に逃げ戻った。 「いいや。お前は十分、周囲を愛している。 だから、みんながお前を必要とするのだ。 失う事が怖くて、愛せないふりをしているだけだ。 昔からお前はそうやって、冷たいふりをする。 私以外のところにも、もっと感情を出していい。 お前の情熱は、みんなに伝わる。 ヘルガ、今はもう、お前は私だけのものではない」 ゆるゆると首を横に振り、ヘルガはスコルピオンの胸に顔を埋めた。 「私は、あなただけのものです。今までも、これからも」 深い口づけを交わし、ヘルガはやっと体を離した。 「行って来ます」 ちょっとだけ微笑んで、ヘルガは玄関を出て行った。 ジョルジュはベッドの中に逃げ込み、毛布に包まって身を縮めた。 最初からわかっていたのに。 父に愛されていない事など、わかっていたのに。 いや最初は、辛くなかった。 まったくと言ったらウソになるが、顔も知らない父親に愛されなくても、 平気だと思っていた。だけど今は・・・父を好きになりかけていた。 消えて無くなりたい。 愛してもらえない自分なんて、いなくなればいい。 結局、やっぱり、邪魔なだけなんだ。 ジョルジュは、声を押し殺し、肩を震わせて泣いた。 しばらくそうしていると、足音がして、部屋のドアを開ける音がして、 誰かがジョルジュのベッドに腰掛ける気配がした。 ジョルジュは体を硬くしたまま動かない。 「起きているのだろう?」 大きな手が、毛布の上からジョルジュの体を撫でる。 この人も、好きだった。父の恋人は家族ではないけれど、魅力的な大人だった。 「ジョルジュ?」 恋人に囁きかけるような、優しい声。 毛布の中で、ジョルジュは余計に身を硬くする。 「・・・嫌い。お父さんも、あなたも・・・・」 震える声を絞り出す。スコルピオンは大きくため息をついた。 「愛されないのは辛いが、愛している事が伝えられないのは、もっと辛いな」 それは、誰に言っているのか。ジョルジュに真意は伝わらない。 「ヘルガは自分を責めている。彼女やお前に対して。俺に対しても。 今はまだ、理解してやる事はできないだろう。 だが、ヘルガを一人にしないでやってくれ。今は嫌っててもかまわない」 ジョルジュは目だけを毛布から出して、スコルピオンを見上げた。 「・・・どうして?」 「あいつが自分を許せないと思っている事を、誰かが許してやらなければ」 「・・・わからない」 「そうだな。 何に苦しんでいるのか、あいつ自身が吐き出さなければ、どうする事もできないな。 だからそれまで、ここにいて欲しい。 俺もお前が好きだし、ここにいて欲しいと思っている」 ジョルジュはまた、毛布を頭までかぶった。 大人は、なんとでも言う。口に出された言葉の半分は、ウソだ。 ジョルジュは寝返りをうって、スコルピオンに背を向けた。 「気持ちを伝えるというのは、難しいな」 スコルピオンは立ち上がり、部屋を出て行った。 ザナドゥに会いたい。 彼なら、この溝を飛び越えられるだろう。 夜の闇に降り積もる、冷たい孤独の氷の粒。 凍える前に、彼に会いたい。 ジョルジュは深淵の闇を、ザナドゥへの思いで踏み固めて、眠りについた。