玄関ドアを開け、リビングに入ると、ザナドゥは困ったように肩をすくめた。 「また起きてる」 ソファにゆったりともたれかかり、新聞を広げている男。 「寝ているのに、飽きた」 「それはもう、何度も聞いている」 肩にかけたグローブをソファに置き、コートを脱いで同じ場所に置く。 「コーヒーが飲みたい」 男はまた視線を新聞に戻す、ザナドゥはキッチンに向かい、 少し不器用な手つきでコーヒーを入れる。こういうことには慣れていない。 常にそばにいるジョルジュがしてくれる事だから。 いや、ジョルジュと出会うまでは、何でも一人でやっていた。 こういうちょっとした家事に不器用になってしまったのは、 ジョルジュとの生活が長いせいか。 もう、一人でいた時間より、ジョルジュと一緒にいた時間の方が長い。 それでいて、自分はジョルジュのことを何も知らないのではないかと、ふと思う。 献身的なジョルジュに、頼りきっていた。 カップに半分しか入らなかったコーヒーをしばらく見つめ、お湯を足そうか考える。 が、腕を組んで唇を尖らせ、 「カフェインの取りすぎです」というジョルジュの顔が思い浮かび、残りを牛乳で埋める。 自分はあまりコーヒーを飲まないので、味の保障はしかねる。が、まあいいだろう。 ぬるいカフェオレを持ってリビングに戻り、男の前に置く。 男はそれを手に取り、顔をしかめた。 文句を言われるものと覚悟はしている。ザナドゥは、じっと男の反応を待った。 「上出来だ。お前の入れてくれたコーヒーを飲める日がくるとはな」 男はザナドゥを見上げ、ニッと笑った。 「ベッドに戻らないと、ヘルガに叱られる」 そう言いながら、男の正面に座る。 「ああ。強制入院させるとかなんとか。うるさいのは、ジョルジュの方だがな」 確かに。男が勝手に退院を決めた時、ジョルジュはものすごい剣幕で怒っていた。 当のヘルガは 「仕方がないですね。わがままなんですから」 と、笑っていた。 ヘルガはスコルピオンの事を、誰よりも理解している。 その体のことも。精神や感情的な部分も。 「あなたがそうしたいのなら、しかたがありませんね」 そう言って笑う。 そして、自宅療養に必要な設備を整えるのだ。 自宅に戻ったスコルピオン本人は、まったくじっとしていない。 起き出して新聞や本を読み、ネットで仕事に繋ぎをつけ、 政治家の端っことしての位置を整えている。 「ところで、お前、私に話があったのではないか?」 読んでいた新聞を丁寧に折りたたみ、それをわきに置いて、 スコルピオンは息子の顔を見た。 ギリシャから帰ってきてから、幾分落ち着いたように見える。 相変わらず感情的な表情には乏しいが、険悪な雰囲気がこそげ落ちたようだ。 ギリシャから帰国し、病院で意識を回復させてから、 ザナドゥは「話がある」と一言言ったきり、何も話していない。 その事を、自分の中の変化を、自分自身処理できないまま、 逃げるように住居を変え、顔を合わさないで来た。 そして、あの試合。 あの試合は、ヘルガとスコルピオン、どちらが言い出したことなのか。 ヘルガが、スコルピオンを危険にさらすような事は絶対にしない。 だとしたら、スコルピオンは死を覚悟でリングに上がったということか。 スコルピオンがそうしたいと申し出たなら、 きっとヘルガは悲しそうな顔をして言うのだ。 「しかたがないですね、あなたがそうしたいのなら」 と。 いや、違う。 ザナドゥは片手を額に当てて、俯いた。 そんな単純なものではない。 そんなにすぐに、諦めのつく関係ではない。 もし自分だったら・・・。 勝ちに行く戦いではなく、負けることに意味を成す試合だとしたら。 「・・・・・・母さんの、こと」 俯いたまま、ザナドゥは口を開いた。 次の言葉を探している間に、 玄関ドアが開き『口やかましい』張本人が帰宅してきた。 「あ、おじさん! また起きてる!」 腰に手を当て、本当は絶対安静なのだとかマシンガンのようにまくし立てる。 その後ろから姿を現したヘルガは、何も言わずスコルピオンの隣に腰掛け、 手を重ねて脈をはかり、瞳孔の充血などを調べてから、 そっとスコルピオンの耳もとに囁く。 「動悸や頭痛などはありませんか?」 「大丈夫だ」 スコルピオンは囁き返し、ヘルガの頬にキスをする。 「病院の方はいいのか?」 「ええ。長期休暇を取っている手前、その間の患者さんの容態を診たり、 今後のスケジュールの調整をしてきただけですから。 それに、私がお休みを頂いている間、ジョルジュがヘルプに入ってくれるというので、 その手続きもね」 不機嫌そうにしているジョルジュに、スコルピオンは唇を歪ませて見せた。 「すまないな、ジョルジュ」 「礼を言われる覚えはありません」 照れ隠しか、ふん、と鼻息を吐いて、ジョルジュはザナドゥの隣に座った。 「スコルピオン、ベッドに戻ってください」 穏やかなヘルガの口調。 「ザナドゥとの話が済んだらな」 ヘルガはザナドゥを見、視線をスコルピオンに戻す。 「少しですよ? 席を外しましょうか」 立ち上がりかけるヘルガに、ザナドゥは首を横に振った。 「いや、あんたにも聞いてもらいたい」 じっとザナドゥの表情を見つめ、ヘルガはまた腰を落した。 ザナドゥはまた視線を落し、言葉を捜す。 ジョルジュは事を察して、唇をぎゅっと結んだ。 「・・・母さんは・・・幸せだったと思う」 呟くように、ザナドゥは言葉を続けた。 「母さんは、いつもあんたの話をしていた。強くて優しい男だと。 ・・・もしあんたが、母さんの言っていたような、誠実な男であるなら、 なぜ迎えに来てくれないのか、オレには理解できなかった。 母さんが話してくれるような立派な男であるなら、なぜ母さんとオレを捨てたのか。 だからオレは、あんたが憎いと思った。 母さんを死に追いやったあんたが、許せないと」 言葉を切り、ザナドゥはため息をつく。 「・・・あんたと生活をして、オレは、 あんたは母さんの言っていたような人物ではない事を知った。 感情的だったり、短絡的だったり、 自分の感情をセーブできずにじたばたもがいたり。 思い通りに事が運ばないと八つ当たりをしたり。 己の力の弱さを悲観して落ち込んだり。 ヘルガの前でのあんたは、そんな立派な人間じゃない。 あんたは、母さんの前では良い所しか見せなかった。そうだろう?」 スコルピオンは、力なく笑って頷いた。 もちろん、彼女の前で立派な男を演じたかったわけではない。 ただ、本当の自分を見せるには、あまりに時間がなさ過ぎたのだ。 「自分勝手でわがままなあんたを、母さんは抱擁することができない。 耐えられないだろう。 だから、あんたという幻想を抱いたまま天に召された母さんは、 幸せだったのだと思う」 ゆっくりを顔を上げ、ザナドゥはヘルガを見た。 ヘルガは切なそうに瞳を細める。 「母さんは、ヘルガのように、強くはない。 最愛の男がリングに上がる事を夢見た時、母さんだったら、 泣いてすがってやめさせただろう。 そんなことを望むあんたに、絶望したかもしれない。 あんたのことを理解してやって、あんたの生き方に沿い従うなんて、 ヘルガにしかできない。 だから・・・・これでよかったんだと思う。 母さんは、あんたという夢を見ていた」 「ザナドゥ・・・」 口を開いたヘルガは、熱いと息を漏らす。 「ヘルガ、あんたは、自分が母さんを死なせた。そう思っているのだろう?」 誰に聞いたわけでもない。それは、ヘルガのザナドゥへの接し方でわかる。 ヘルガは俯くように頷く。スコルピオンが、ヘルガの手を握る。 「そうじゃない。 あんたは・・・母さんが愛した男を幸せにできる、ただ一人の人間なんだ」 母さんは、知っていた。 不意に、ザナドゥはそう思えた。 彼女は、その存在を知っていた。 それでも、その男を愛した。 心が自分にないここと知っていても、その男を愛した。 その男が、決して自分のものにならないと、知っていた。 なぜなら・・・・・ マレーネは、自らの意思で壁を越えようとしたわけじゃない。 もう、永遠に会えないことを、悟っていた。 (オレが、母さんを殺した) そんな言葉が、脳裏にきらめく。 認めたくなかった。否定し続けてきた。 だがそれは、真実だ。 ザナドゥのきつく握った手のひらが、汗をかく。 自分をかばって死んだ母親を、その死を、誰かのせいにしたかったのだ。 本当に許しを与えられなければならないのは・・・ザナドゥ自身だった。 「私は・・・」 スコルピオンは、重い口を開いた。 「それでも、あの時、あの一瞬、彼女が必要だったし、彼女を愛していた」 そう言うスコルピオンは、真っ直ぐにザナドゥを見つめている。 「ああ・・・知っている」 スコルピオンの、迷いのない真っ直ぐな視線に、ザナドゥは決意を感じる。 この男は、いつだって正直で、真っ直ぐにしっかりと自分の道を歩いていく。 「だから、母さんは、幸せだった。その事を伝えたかった。 オレは、その事を伝えるために、生きてきた。 だからもう、あんたの前にいる必要はない。 オレがここにいる限り、あんたは母さんの記憶に苛まれ、 ヘルガは自分を責め続けるだろう。だから、出て行こうと思う」 え? と、ジョルジュが驚きの表情をする。 「・・・本気、ですか?」 「ああ。だが、ジョルジュ、お前は自由にするがいい。 お前はここで必要とされている。 それに、お前が自分の父親を尊敬し、愛している事を、オレは知っている。 オレとは、違う」 突然のザナドゥの言葉に、ジョルジュは愕然とする。 ザナドゥもまた、真面目で真っ直ぐな性格なのだ。 スコルピオンも、ヘルガも、ザナドゥをじっと見つめている。 「・・・・お前は、次にこう言う。 『オレと共にいたら、お前がダメになる』そうだな?」 スコルピオンの言葉に、ザナドゥは肯定するように唇を結ぶ。 スコルピオンは目を伏せ、ヘルガはその手を握る。 「それは、お前のエゴだ、ザナドゥ」 再びスコルピオンは口を開いた。 「若い頃、私は理想のために命を懸けていいと思っていた。 そう思えることは、若さの特権だ。だがな、お前は振り返った事があるか? そこに、誰がいるのか。当たり前と思っている奇跡に、気付いているか? お前はもう、一人ではないのだ。 お前が思っているよりずっと、私はお前を愛している。 責任や懺悔の気持ちからではない。 お前と過ごしてきた10年という月日の積み重ねだ。 たぶん私は、息子としてより、一人の人間として、将来のある一人のボクサーとして、 共に暮らしてきた男として、お前に愛情を抱いている。 ヘルガも、お前の出生や、受けてきた苦労に対する償いの気持ちはあるだろう。 だがそれ以上に、共に過ごしてきた家族として、お前を愛している。 私は、お前と拳を交える事が、自分の最後の望みだと思っていた。 そしてリングで迎える死が、私の人生の終着点だと。 それが、お前に与えられる、唯一の贖罪だと。 だが、それは私のエゴでしかない。 私の人生の積み重ねの中で、失いたくないものを、やっと見出した。 たとえ無様な人生を送る事になろうと、誰に蔑まわれようと、 ・・・誰に嫌われようと、誰に憎まれようと。 ザナドゥ、お前は今、間違った選択をしようとしている。 20年前、私が間違った選択をしたように。 立ち止まって、振り返ってみるがいい。そこに、誰がいるのか。 誰がお前を愛しているのか。 お前が思っているよりずっと、お前は愛されている。 例えお前が、無様な生き様を選んだとしても。 お前が握っている手のひらの中のものを、開いて見てみるがいい」 ザナドゥは自分の手を見下ろし、手のひらを広げる。 (母さん) 愛してくれた、愛していた、母親の姿が目に浮かぶ。 「・・・あなたを愛しているのは、あなたがすがりたいものだけではありません」 ヘルガの声は、優しかった母の声に重なる。 「あなたに拒まれても、私はあなたが好きですよ」 そう言って、ヘルガは優しく微笑んだ。 「私は失いたくありません。スコルピオンも、ジョルジュも、あなたも。 もっと、頼って欲しいと思います。 私が医者になったのは、愛する者を失いたくないからですから」 ザナドゥは視線を手のひらから正面に移す。ヘルガは微笑みの口元で、 「ねぇ、ザナドゥ」 と呟く。 「あなたは、誰も不幸になんか、しません」 ハッと、ザナドゥは光がよぎったような気がした。そして、隣を振り向く。 ジョルジュは、涙を溜めた瞳でザナドゥを見つめている。 「もっと自分をさらけ出して、もっとわがままを言って、 大人びた諦めの言葉なんか口にしないで」 ジョルジュは、すがるような目でザナドゥを見つめる。 「ジョルジュ、こんな時、なんて言うか知っていますか?」 父の言葉に、ジョルジュはちらりとそちらを見た。 ヘルガは、少し困ったように眉を寄せて、恥ずかしそうにその言葉を口にした。 「私を捨てないで」 とたんに、ジョルジュの顔が真っ赤になる。 スコルピオンはヘルガの顔を覗き込み、その頬にそっとキスをした。 「お前らしくない言葉だ」 「やっと私にもわかったんです。自分の感情を表現する言葉が」 くすくすと笑い、ヘルガはスコルピオンの髪にキスをした。 「もう時間です。ベッドに戻ってください」 「もう一度、私に向かって今の言葉を言ってくれたら」 「ベッドに戻ったら、言いますよ」 ヘルガに支えられ、スコルピオンは立ち上がった。 「・・・・・お・・・親父」 言いにくそうに、ザナドゥが声をかける。スコルピオンは唇を吊り上げて見せた。 「おい、でも、お前、でもいい。好きに呼べ。無理はするな」 一呼吸置き、ザナドゥは改めてスコルピオンに向き直る。 「オレは・・・まだ、あんたから学びたい事がある。オレは、あんたを超えたい」 「ではまず、腰をすえることだな。 お前の隣のヒヨコを、ちゃんと手なずけることから始めるんだ」 「ヒヨコ?」 ジョルジュが甲高い声で声を上げる。ヘルガはまたくすくすと笑った。 「親の後をついて行くしか能のない、右も左もわからないヒヨコ、ですか」 ヘルガの言葉に、ジョルジュが不満げに頬を膨らませる。 「私はまだ、あなたのヒヨコですか?」 「ああ。気を抜くと突付かれる、獰猛なヒヨコ、だな」 そんな父の会話に、ジョルジュは眉を寄せたまま首をかしげた。 ヘルガに支えられるように、スコルピオンは自室のベッドに戻っていった。 二人が去った後、ジョルジュは自分の気持ちをザナドゥに伝え、 そして若い二人は静かに話し合った。これからのことを。 こんなふうに、落ち着いてじっくりと話をするのは・・・・ 出会ったばかりの頃の、あの夜以来だ。 あれから今まで、何かに急き立てられるように走り続けてきた、気がする。 振り返ることなく。 立ち止まることなく。 ジョルジュは、たくさんしゃべった。ザナドゥへの思いを。 そしてザナドゥは、ゆっくりとその一つ一つを噛みしめた。 だいぶ遅くなってから、ジョルジュは簡単な夕食を用意し、 それを持ってスコルピオンの部屋をノックした。 ヘルガはスコルピオンの部屋から出てきていない。 まるで一秒でも離れていたくないというように。 だから、ジョルジュは夕食を持っていった。スコルピオンとヘルガの分。 そして、自分とザナドゥの分も。 「お父さん、ここで夕食、いいですよね?」 ベッドサイドに椅子を引き寄せ、 膝にノートパソコンを置いて仕事をしていたヘルガは、顔を上げてにっこりと頷いた。 四人で膝をつき合わせて食事を取る。 一通り食べ終わった後、ザナドゥは静かに口を開いた。 「・・・・オレは、プロになろうと思う」 その言葉に、スコルピオンもヘルガも、驚きはしない。 「やはりオレには、ボクシングしかないから」 誰もがザナドゥをじっと見守っている。 「試合に集中できるように、住み慣れた場所にいたいと思う」 「それは、いい考えですね。ここには家事をしてくれる人もいますし」 ヘルガの言葉に、ジョルジュが口をはさむ。 「家事をするってのは、私のことですか?」 ふふふ、とヘルガが笑う。 「もちろん、手伝いますよ」 「当てにはできませんけど。お父さんは多忙ですし。 それに、あんまり家事に慣れていないでしょう?」 「家政婦を雇ってもいいんだが」 スコルピオンの言葉に、ジョルジュは首を横に振る。 「おじさんはセレブですからね。でも、家事は私がします」 ふん、と鼻で息を吐いてから、ちょっと肩をすくめ、 ザナドゥに話の続きを促す。 ザナドゥはジョルジュに目配せをしてから、ひとつ深呼吸をした。 「・・・・それで、あの部屋が、欲しい」 あの部屋? とヘルガが首をかしげ、スコルピオンが唇を結ぶ。 「使っていない、あの部屋だ。 弾く人のいないピアノをいつもでも放置しておくのは、 もったいない・・・と、思う」 ヘルガは目を見開き、口元に片手を持っていった。 「ピアノをどこかに寄付するか処分するかして、トレーニングルームに改造したい。 オレは、もっと練習時間を有効に使いたい。 あんた・・・親父、が、それでも良いと言うなら」 ザナドゥの言葉に聞き入っていたスコルピオンは、ふと深いため息をついた。 「・・・お前が、そうしたいと言うなら。 それで良いと言うのなら、好きに使うといい。 あの部屋は、お前と・・・・・いや、お前のために用意した部屋だったからな」 もう、いないのだ。あの部屋に呼ぶべき人は。 いつまでもそのままにしておいたのは、ザナドゥのためだ。 自分への戒めと、ザナドゥの慰めのため。 「ありがとう。明日早速、処分を始める」 ありがとう、というザナドゥに、スコルピオンが口を歪める。 「初めてだな。礼を言われるのは」 スコルピオンに指摘され、少し驚いたようにザナドゥは眉を上げた。 それからスコルピオンは、ジョルジュに視線を移した。 ジョルジュもプロになるつもりなのか、そう問うために。 が、スコルピオンが質問を口にする前に、ジョルジュの方が先に話し出した。 「私は、医師免許を取ろうと思います。 結局、大学を卒業しただけで、臨床はあまりやっていませんから。 最終的には、スポーツドクターを目指します」 スコルピオンに宣言してから、ヘルガの方を見る。 「私は、私にできる方法で、ザナドゥを守りたいんです。 結局、ギリシャから帰ってきたザナドゥを救ってくれたのは、お父さんです。 私は、何もできませんでした。もう、あんな思いをするのは、いやですから」 複雑な思いで、ヘルガは微笑む。 ジョルジュに対して慰めの言葉をかけたいのだろうが、それは哀れみにしかならない。 現実的に、瀕死の肉体を治療したのは、やはりヘルガなのだから。 「心強いな」 気のきいた言葉を見つけられないヘルガの代わりに、スコルピオンがそう言った。 「ですから、私もここに住みます。 ここなら家賃も光熱費もいりませんし。勉強に集中できますから」 何でも知っている天才外科医もいることだし。 「いいですよね? おじさん」 ベッドの上のスコルピオンは、一呼吸置いてから口を開いた。 「あたりまえだ。ここは、お前たちの家だからな」 それまでと、とりわけ何かが変わったわけでもない。 だが、ほんの少しずつ、屋敷の中が明るくなっていく。 ピアノを処分し、ピアノの部屋から眺められたクリスマスローズを、 ザナドゥは小さな鉢植えに分けて、親衛隊の女性たちに配った。 彼女たちは、親衛隊としての役職を終えた。 ドイツ軍を率いる事をやめたザナドゥだが、彼を敬愛する者たちは、 自主的に残り、やはりザナドゥの周囲を固めた。 クリスマスローズを処分したあと、ザナドゥはバラの鉢植えを買って来て、 ジョルジュに手渡した。 「私に?」 不思議そうに目を見張るジョルジュに、ザナドゥは照れたように視線を外す。 「花屋で、目に付いたから」 花の名前を勉強しておけばよかった。そんなことを思う。 ジョルジュは、いっぱいに笑みを湛え、バラを受け取った。 ザナドゥが花を買うのは、いつも亡くなったお母さんに捧げるためだった。 小さな切花を買って、壁に供えていた。 たぶん、鉢植えを買ったのは、初めてだろう。 ザナドゥは、それ以上何も言わず、ロードワークに出かけていった。 それと入れ替わるように、ヘルガが帰宅してくる。 ジョルジュが抱えている鉢植えに、ヘルガは目を細めた。 「パローレですね?」 一瞬、何の事かわからず父親を凝視するが、 ヘルガがバラを指差し、ジョルジュはやっとそれがこのバラの名前だとわかった。 「バラの名前まで熟知しているんですか?」 さすがに眉を寄せる。ヘルガは、おかしそうにくすくすと笑った。 「名前の意味は、誓いの言葉。赤いバラの花言葉は『愛』ですよ」 目をぱちくりさせた後、ジョルジュは頬を染めた。 「バラの名前は、ほら、根元のタグに付いています。 いくら私でも、バラの名前を全て覚えてはいません」 騙された、というように、頬を染めたままジョルジュが唇を尖らせる。 「ようは要領ですよ。全てを記憶する事がよいわけではありません。 必要な情報をどこから探ればいいのか、知ることが大切なんです。 それはともかく、そのバラ、あなたに似合いますよ。 庭に植えるの、手伝いましょう」 ピアノのあった部屋の窓から、よく見える場所にバラを植える。 この庭には、他にもバラがいくつかあるが、白がメインだ。 そういえば、庭の花の話など、したことがない。 「この庭の花は、お父さんの趣味なんですか?」 「まさか。私は植物に興味などありません」 いつも水をまいたり、世話をしているイメージがあったから、その発言は意外だ。 「では、誰が?」 「たぶん、スコルピオンの亡くなったご家族でしょう」 ちょっと、不思議な感じがする。 こんなにきれいにしている庭だが、住人は固執していない。 「植物が好きなら、好きなものを植えていいですよ?」 そんなことを言われても、ジョルジュも別に花が好きなわけではない。 ザナドゥがくれた、このバラを除いて。 「ヘルガ」 頭上から声が降ってくる。見上げると、二階の窓からスコルピオンが顔を出していた。 「珍しいな。花を植えるなんて」 「これはね、ザナドゥがジョルジュにプレゼントしたものですよ」 ニコニコとヘルガが応える。 スコルピオンは眉を上げ、そんなスコルピオンに、ジョルジュはニヤリと笑いかけた。 自慢するようなジョルジュの笑みに、スコルピオンが肩をすくめる。 「花が欲しいか、ヘルガ?」 「いりませんよ。それより、おとなしくして、主治医の言う事をきいてください」 もう一度大げさに肩をすくめ、スコルピオンは顔を引っ込めた。 ヘルガはジョルジュに向き直り、 「さ、お茶にしましょう」 そう言って微笑んだ。 「お父さん」 「はい?」 ヘルガが小首を傾げる。 (お父さんはあの時、本当におじさんが死んでもいいと、思ったんですか?) 出かかった言葉を飲み込み、ジョルジュは笑って見せた。 「私、お父さんに負けませんから。ザナドゥだって、おじさんに負けません」 ヘルガも笑みを返す。 「まだ追いつかれませんよ。 だって、あなたのザナドゥへの愛よりずっと、 私のスコルピオンへの愛の方が強いですからね」 ジョルジュは立ち止まり、言葉を失った。 ヘルガが屋敷の中へ姿を消してから、ジョルジュは我に返って、慌てて後を追う。 「そんなことないです! 私だって! お父さん! 聞いてます?!」 ジョルジュの叫びに、ヘルガは余裕で微笑み続けた。