覚悟、って、どういう意味なのだろう。

 「リハビリ」から「練習」に移行したザナドゥを見つめながら、ジョルジュは思う。

 ザナドゥが本格的にボクシングを始めてから、ずっと見てきた。

 ザナドゥは世界一強いのだと思ってきた。

 だから、どんな試合に挑む時も、心配はなかった。

 ギリシャでさえ、心のどこかで「ザナドゥが負けるはずがない」と思っていた。
相手が卑怯な手を使っても。

 そばから離れることは不安だった。ザナドゥの勝利を、いつも目に入れておきたかった。

 だから今度の試合だって、ザナドゥが負けるはずがないと思う。

 病み上がりで練習不足だったとしても、ザナドゥが負けるはずがない。

 なのにジョルジュの胸の中で「覚悟」という言葉が常に重くのしかかっている。

 いつかは越えなければならない「壁」。

 あの日、目の前に現れたのは、自分の父親ではない。
西ドイツの英雄、伝説のJr.ボクサーの参謀。英雄を英雄にのし上げた男。
何千という西ドイツJr.ボクサーを統べていた男。

 

 

 

 瀕死の怪我を負っていたことなど、理由にならない。

 ザナドゥは体調を完璧に整えていった。
その体力と精神力は、誰にも真似のできるものではない。

 ボクサーたる者、敗北に理由などない。

 勝利せねば、意味がないのだ。

 ジョルジュは、ザナドゥのために全身全霊をかけていた。
練習メニューから食事管理まで。
たぶん、こんなにもザナドゥのことだけを考えて生活したのは、初めてだろう。
ジョルジュにとって、ザナドゥが生活の全て、己の全てであるように。

 対戦相手の研究のために、古いビデオも見た。
若いのに鋭い眼光を持ったサソリと、その後ろに常に控えている幼い少年。
少年はビデオカメラに眼を向けることはない。英雄スコルピオンだけを見ている。
試合の前後、スコルピオンは参謀の少年と視線を合わせる。
少年は何か短い指示を出し、スコルピオンは目で頷く。
勝利したスコルピオンに、少年がわずかに微笑みかける。
スコルピオンは少年に歩み寄り、耳もとに何かを囁く。
一瞬見つめあい、スコルピオンはビデオカメラの方を向いて、
勝利を宣言するように片腕を上げる。

 ザナドゥは腕を組んだまま、テレビ画面を凝視している。

 ジョルジュはふと、自分は、あんなふうに熱く見つめられることがあるだろうかと考える。

 スコルピオンの勝利は、ヘルガのためなのだ、と察する。

 何千というJr,ボクサーを率いても、西ドイツの英雄と呼ばれようとも、
あの青年は、たった一人のために闘っているのだ。

 たった一人の「英雄」でいるために。

(私は、あの人に、あの参謀ヘルガに、勝てるのでしょうか)

 ジョルジュは言葉を飲み込む。

 ヘルガは、スコルピオンのためだけに生きている。存在している。

 ふとため息を零すジョルジュの肩を、ザナドゥが力強く掴んだ。

「練習に戻る」

「はい」

 すぐに応えて席を立つ。

(私は、あの人の思いに勝てるでしょうか)

 疑問は言葉にならない。

 ザナドゥの背中は、弱気な質問を寄せ付けない。

「ジョルジュ、勝算は見えたか」

 ザナドゥの言葉に、ジョルジュは先ほどのビデオを分析し、
スコルピオンの動きと、それに対応する動き方を話し始める。

「勝てます」

 はっきりと断言する。

 ザナドゥの方が、強い。

 絶対に、強い。

「しかし、あの参謀はやっかいです。こちらの手をすぐに読んでくるでしょう」

「その対応は、お前に任せる」

 振り向かないまま、ザナドゥが言う。

 信頼されている。それはわかっている。

 ただ、あのビデオを見た後では・・・・・。

(振り向いて、話して欲しかった)

 スコルピオンが、己の参謀を熱く見つめるように。

 突然ザナドゥが足を止め、ジョルジュはあやうくその背中にぶつかりそうになった。
体勢を崩してよろめくと、そのジョルジュの腕をザナドゥがしっかりと掴む。

「・・・ザナドゥ・・・?」

 ジョルジュの腕を掴んだザナドゥは、驚くジョルジュの瞳を見入った。

「オレはあいつを超える。それにはお前が必要だ」

 ドクン。

 ドクン、と心臓が高鳴る。

 ザナドゥの瞳に引き込まれ、ジョルジュは心の高揚を感じた。

「もちろんです」

 彼らを超える。

 必ず、超える。

 ザナドゥは手を離すと、再び歩き出した。

 ジョルジュはその後を追いながら、拳を握った。

 必ず、勝つ。

 自分もまた、この人に出会うためだけに生まれてきたのだ。

 

 

 

 そして、その日は来た。