入院中、ザナドゥは言葉数が極端に少なかった。 もともと饒舌な方ではない。だが、それ以上に寡黙だった。 ギリシャでの出来事が、ザナドゥにそうさせるのか。 入院中、付きっきりで看病していたジョルジュも、 ザナドゥの寡黙さに、何か引っかかるものを感じていた。 担当医としてヘルガは毎日来ていたし、 スコルピオンも2日とあけずに見舞いに来ていたが、 ザナドゥは彼らと会話をする事を拒んでいた。 いや、迷っているのだ。 ジョルジュはそう思った。 自分のことを話すことに慣れていないザナドゥは、 ギリシャでの一件以降、自分の親と何を話せばいいのか、迷っているように思えた。 口をつぐむザナドゥに、ヘルガも、スコルピオンも、言葉を無理強いする事はなかった。 自分の気持ちの整理がついたら、話せばいいのだ。 今は、体を治すことに専念すればいい。 ザナドゥの尋常ならぬ体力は、手術から一ヶ月で退院するまでに回復した。 ザナドゥが退院すると、ヘルガは2日間の休暇をとった。 それまで、ほとんど休んでいなかったのだ。 休暇の最初の一日は、死んだように眠った。 ヘルガの体力と精神力は人並みはずれているが、それでも限界はある。 スコルピオンの屋敷で、スコルピオンのベッドで、24時間眠り続けた。 その間、スコルピオンは仕事を続けた。 眠っているヘルガを残して出勤し、深夜に帰宅する。 もうそろそろ、何か食べないといけないだろうと、 スコルピオンはすぐに食べられるものをいくつか見繕ってきた。 帰宅すると、リビングの明かりがついていた。 ほの暗いランプシェードだ。 ゆっくりとくつろぎたい時、二人はランプシェードの明かりだけをつけ、 音楽を聴いたり、寄り添って取り留めのない会話を楽しんだりする。 スコルピオンは食材をキッチンに置いて、リビングに向かった。 オレンジ色の暖かい明かりの中、ヘルガはソファーに寄りかかっていた。 手元のサイドテーブルには、甘い白ワインとグラスがひとつ。 「・・・ヘルガ、起きたのか」 そっと声をかけると、ヘルガはけだるげに振り向き、ふわりと力ない笑みを作った。 「お帰りなさい」 「空きっ腹にアルコールはよくない」 手元のワインを指差す。ヘルガはため息のような笑みを零した。 何か食べ物を用意してやりたい保護者的な本能と、 今すぐ抱きしめたい男の欲望が入り混じり、 スコルピオンはそれを全て押さえ込んで、ヘルガの隣に座った。 ヘルガはワインを一口飲んだだけで、また口をつぐむ。 何かを考え込むように、床に視線を落したまま、じっと黙り込んでいる。 その理由を、スコルピオンはわかっている。 今、この屋敷にいるのは、ヘルガとスコルピオン、二人だけだ。 それが、ヘルガを黙らせる理由。 ザナドゥの退院が決まった時、ザナドゥは退院した後の住居を、 ドイツ軍本部のあるあのビルの一室に決めた。 この屋敷には、帰ってこなかったのだ。 もちろん、ジョルジュもザナドゥに付き従っている。 いろいろと複雑な問題を抱えていたとはいえ、 それでも、この屋敷は子供たちの「家」だった。 ザナドゥが父親を憎み、挨拶さえ拒んでいたとしても、 この屋敷はザナドゥとジョルジュの「帰る家」だった。 なのに、二人は帰ってこなかった。 理由を話すこともなく。 ヘルガもスコルピオンも、理由を問いただす事をしなかった。 もう二人は、「擁護されるべき子供」ではないのだから。 その事は、少なからずヘルガにショックを与えた。 いい親ではなかっただろう。いい家族でもなかったかもしれない。 それでも、ヘルガは「家族」でいたかった。 「子供は、いつかは親から離れていく」 自分自身に言い聞かせるように、スコルピオンは言った。 自分は、ザナドゥの父親になれたのだろうか。 そう思う。寝る場所と食べるものを与えていたに過ぎない。 そこに、愛情はあったのだろうか。 自分の息子を、「愛したい」と思っていただけではないのか。 「ヘルガ」 言葉を紡がないヘルガの肩を抱き、そっと自分に引き寄せる。 ヘルガは、スコルピオンの肩に頭を乗せた。 「もう、子供ではないのだ」 親から離れることが、大人への第一歩。 「私が、あの子達にしてあげられることは、もうないのでしょうか」 沈んだ声で、ヘルガはそう呟いた。 「・・・・まだ、ある」 そう言ったスコルピオンの声色も、沈んでいる。 もう少し、子供でいて欲しかった。できれば、永遠に子供でいて欲しかった。 彼らが子供である事をやめるなら、親としてしなければならないことがある。 スコルピオンは、もうずっと、 たぶん、ザナドゥがこの屋敷に来た時からずっと、その事を考えていた。 最後に、自分がしなければならないこと。 それは、できるだけ後回しに、遠くに、見えない場所に置いておきたかった。 誰がなんと言おうと、内心スコルピオンは、 この家族ごっこに多少ならず幸福を感じていたから。 でももう、覚悟をしなければならない。 これは、自分の蒔いた種、なのだから。 そしてその事は、ヘルガもよくわかっていた。 そうしなければならないことを。 「愛している、ヘルガ」 耳もとに囁く。 「出会った時からずっと、お前を愛している。 これからもずっと。この愛が朽ち果てる事はない」 スコルピオンの肩に、ヘルガは瞼を押し付ける。 重ねた手を、ぎゅっと握る。 「たとえ、何を失っても。それが、どんな罪であっても。 たとえ、地獄の業火に焼かれようとも。私は、お前だけを愛している」 スコルピオンの手を握るヘルガの指に、力がこもる。 「スコルピオン・・・全ては、私のためだと言って。 全て、私を愛した代償だと」 そうやって、また己の傷口を広げるのか。 ヘルガの傷が癒えることは、ないのか。 「ああ。全てが、お前のためだ。私が彼女という幻影を抱いたのも。 彼女に希望を与え、踏みにじったのも。彼女を死へ追いやったのも。 私がお前を選んだせいだ。お前を手に入れるための代償だ。 お前は私の罪であり、私はお前の罪だ。ヘルガ、愛している。 お前が私の愛を受け入れてくれるなら、私はどんな罰も受けよう。 私はそれを、恐れない。 お前が私から離れて行く、その恐怖に比べれば、私はどんな痛みも我慢できる。 ヘルガ、私を愛していると、言ってくれ。お前のために罪を犯す私を。 最後まで愛すると、誓ってくれ」 胸が、苦しい。 「私は・・・あなたを許さなければ、ならないのですね」 「お前が私を愛しているのなら」 胸が苦しい。 こんなにも、人を愛する事が苦痛だなんて。 それでも、選択しなければならない、未来。 ヘルガは顔を上げ、青ざめた唇で微笑んだ。 「愛しています、スコルピオン」 重なる唇。 そう、この愛を手に入れるためなら、どんな代償も払おう。 どんな罰も受けよう。 「永遠の愛を、誓います」 この命が朽ち果てようと。 ジョルジュは、ザナドゥが変わったのだと思った。 ギリシャでの戦いで、何があったのか、真実をザナドゥの口から聞くことはない。 それでも、ザナドゥがあの屋敷を出る事を決めた時、 ジョルジュは、ザナドゥがスコルピオンの事を許したのだと思った。 ザナドゥがあの屋敷に住んでいたのは、父親に対する罰だった。 つかの間の愛という幻想を彼女に抱かせ、それを裏切った男。 最も愛する人と暮らす父親に、彼女の事を忘れさせないために。 あの男の罪を目の前に置き続けたのだ。 それでも、時間が全てを解決してくれればと、ジョルジュは思い続けていた。 いつか時間が、ザナドゥの冷たい心を暖めてくれればと。 だから、ザナドゥが屋敷を出ると言い出した時、 ザナドゥの罰は終ったのだと、そう思った。 あとは、何かきっかけがあればいい。 ザナドゥの許しを直接伝える事のできる、何かきっかけが。 まどろっこしさを感じながらも、時間は過ぎていく。 今はまだ、時間は必要だ。 十年も憎み続けてきた相手だ。 焦りを覆い隠すように、ジョルジュはドイツ軍の今後の事を考えるようにした。 ザナドゥの体力は、かなり回復している。 ザナドゥがこの先もドイツ軍のトップでいるために、どうすればいいのか。 いつかどこかで、その実力が失われていない事を示す試合が、必要になるだろう。 その相手は、誰がいいか。国内で探すか、海外に目を向けるか。 日本との試合は、まだ先になるだろう。 その前に、ザナドゥが正真正銘欧州チャンプであることを示さなければ。 「参謀、来客です」 親衛隊の者が、執務室のドアを開ける。 執務室の椅子に座ったまま、ジョルジュは顔を上げた。 そして、親衛隊の後ろから入ってきた男を見て、飛び上がるように立ち上がった。 「・・・お父さん!」 慌てて口に手をやり、冷静な態度を取り繕って、 親衛隊の者に礼を言って退出を申し渡す。 頭を下げて出て行く親衛隊に、ヘルガはにこやかに礼を言った。 それから、ジョルジュのデスクに歩み寄る。 ジョルジュは己の動悸を抑えるように、椅子に座った。 「何の用ですか?」 理由も言わず屋敷を出てしまった手前、問いただされる事は覚悟していたが、 正直、まだその言い訳を考え付いてはいない。 「Jr,ボクシング、欧州チャンピオンに試合の申し出に参りました」 その態度は凛としていて、父親の雰囲気は微塵もない。 ジョルジュは驚いたように目を瞬き、ぐっと唇を結んだ。 「チャンピオンのセコンドは、あなたですね?」 「私はドイツ軍の参謀です。全てを指揮しています」 ジョルジュも、よそよそしい態度を作る。 そんなジョルジュの態度に、ヘルガは満足したように軽く頭を下げた。 「試合の申し入れ書です」 持参した紙をジョルジュに差し出す。ジョルジュはうやうやしくそれを受け取った。 それは、正式な試合の申し込みだった。 その書式は、何度も目にしていたし、幾度となく処理してきたものだ。 「当方は公式のボクシング団体に登録されておりません。 ですので、これは公式試合とはなりませんが、 個人的に欧州チャンプとの試合を希望しております」 その紙に目を通したジョルジュは、これ以上ないほど目を見開いた。 「・・・・これは・・・・」 「是非、試合を受け入れて欲しく存じます」 「・・・・・・・・・・・」 言葉が出ない。 自分の目にしているものが信じられなく、何度も何度も読み返す。 「・・・・あなたは・・・・・・誰ですか・・・」 息を詰まらせながら、顔を上げる。ヘルガの表情は、自信と威厳に満ちている。 彼の勤める病院でさえ、そんな顔をしたのを見た事がない。 ジョルジュにとって、目の前にいるのは、見た事もない男だった。 「申し遅れました。私はヘルガ。 元西ドイツJr.ボクシングチャンピオン、スコルピオンのマネージャー兼セコンド。 参謀と呼ぶ者もおります」 指先が震えて、書類がデスクの上に落ちる。 「試合、受けて下さいますね?」 めまいを感じ、ジョルジュは両手で顔を覆って目を閉じた。 ありえない。 こんなこと、ありえない! 「・・・・元チャンピオン、スコルピオンは、 もうボクシングのできない体だと聞きました。 こんな無茶な試合、受けるわけにはいきません!」 「負けるのが、怖いのですか?」 ぞっとするようなヘルガの口調。ジョルジュは両手でデスクを思いっきり叩いた。 「何の茶番ですか?! 私をからかっているのですか!!」 うわずった声で叫ぶ。ヘルガは笑みを消し、じっとジョルジュを見つめた。 その視線は、冷たく、重い。 「その試合、受けよう」 突然の声に、ジョルジュとヘルガは、ドアの方を見た。 黒いコートに身を包んだザナドゥが、そこに立っていた。 「オレも、元チャンピオンと手合わせをしてみたい」 「ザナドゥ?!」 ジョルジュは懇願するような声を出す。 「ただし、相手が老兵だろうが瀕死の怪我人だろうが、オレは容赦しない」 「もちろんです。こちらもそれを望んでいます」 ヘルガの唇が、相手を見下すように吊り上る。 ジョルジュはヘルガとザナドゥを見比べ、頭を振った。 「チャンピオン・ザナドゥ、あなたはご自分の参謀を、 もうちょっと躾けた方がよろしいようですね。 よく吼える犬は、弱く見られますよ」 とても自分の父親の言葉とは思えない。ジョルジュは唇を噛んだ。 「ヘルガ殿、あなたはよほどの自信家のようだ」 ザナドゥの言葉に、ヘルガは鼻で笑う。 「私をだれだと思っているのですか?」 西ドイツ最強のボクシング軍団を率いていたのは、実質、参謀ヘルガなのだ。 「日程と会場は、そこに書かれたとおりです。よろしいですね?」 唇を結んだままでいるジョルジュの代わりに、ザナドゥが頷く。 では、と、ヘルガは踵を返した。 ドアの前に立ったままのザナドゥとすれ違う瞬間、 ザナドゥは素早く右腕を繰り出した。 それがヘルガの顎に入る寸前、ヘルガは軽くそれをかわし、 左の拳でザナドゥのこめかみを掠める。 現役時代と変わらぬ俊敏な反応だ。 ヘルガを試すようにパンチを出してきたザナドゥに、 ヘルガは唇だけで笑みを作った。 「私を、失望させないでくださいね」 そう言い残し、ヘルガは執務室を去っていった。 ヘルガが去った後、とんでもない事になってしまったと、 ジョルジュは椅子の中で肩を落す。 ザナドゥはゆっくりと窓辺に歩いていき、その分厚いガラスの外を眺めた。 「こんな・・・」 こんなことになるなんて・・・。ジョルジュの呟きを遮るように、ザナドゥが口を開く。 「ジョルジュ、お前はオレのために命をかけられるか?」 ザナドゥの問いに、 「もちろんです!」 とジョルジュが応える。 「なら、お前はオレの死に場所をセッティングできるか?」 意味深なザナドゥの問いに、ジョルジュは息を詰まらせる。 「ヘルガは、それができる」 ジョルジュは耐え切れずに立ち上がり、ザナドゥの隣に立った。 今にも泣き出しそうなほど、顔をゆがめて。 ヘルガとスコルピオンの関係を、ザナドゥは知っている。 たぶん、ジョルジュ以上に。父親の昔の試合をビデオで見た。 西ドイツ最強のJr,ボクサーは、皆に英雄と呼ばれた。 その英雄を英雄たらんとしていたのは、常に彼に付き従っていた参謀だ。 ザナドゥが初めてスコルピオンの屋敷に行ったとき、過去の神話を目の当たりにした。 父親に刃を向けたザナドゥに、 ヘルガは何のためらいもなく己の体を投げ出してスコルピオンを守ったのだ。 そして、スコルピオンはヘルガがそうする事をわかっていて、 ヘルガの行動を止めたりはしない。 そして、今度も。 愛なんて使い古された言葉で、あの二人の関係を言い表す事はできない。 あれは、魂の繋がりなのだ。 何者も、二人を引き裂く事はできず、二人の心を奪う事はできない。 ザナドゥは思う。母は、夢を見ていたのだと。 それでも、そんな哀れな彼女のためにも、自分は決着をつけなければならない。 「安心しろ、ジョルジュ。オレが拳を握るのは、憎しみからではない。 オレはもう、あいつの死を望んではいない。これは、男としての勝負だ。 ボクサーとしての」 ジョルジュはザナドゥのコートの袖口を握り、唇を噛んで目を閉じた。 「最後まで、見ていてくれるな?」 たとえ、どんな結末が待っていようとも。 「・・・はい」 ジョルジュは答え、目を開けてザナドゥと同じ空を見上げた。