「本当か?!」 スコルピオンは、携帯電話を耳に当てながら声を荒げた。 屋敷のリビング。 のんびりとコーヒーを飲んでいたヘルガとジョルジュは、顔を上げてスコルピオンを見る。 スコルピオンはそれからしばらく何かを話して、電話を切った。 「リーマンが破綻した」 ため息混じりに言って、ヘルガを見る。ヘルガは眉を上げて首をひねった。 「よくない状況なのは、わかっていたでしょう?」 「傾いているのと倒れてしまったのとでは、まったく意味が違う」 それからまた、別のところに電話を始める。 ジョルジュは飲んでいたカフェオレのコップをテーブルに置いた。 「アメリカの証券会社でしょう? なんでそんなに焦っているんですか?」 「アメリカ経済の危機はEUにも強く影響しますからね」 スコルピオンの危機的声色と違い、ヘルガはのんびりとしている。 それだけ見れば、まったく危機など感じていないように。 「ヘルガ!」 電話を閉じたスコルピオンが、ヘルガを呼ぶ。 「だめですよ。今日は忙しいんですから」 内容も聞かずに、ヘルガは受け答える。 「資料を揃えて、私のパソコンに送っておいてください。夜にでも見ますから」 ああ、頼む、とスコルピオンは言って、二階の自室に上がっていった。 「何です?」 「経済指標の展望ですよ。 どれだけ影響を受けるか、どう対処すればいいか、一応のシュミレーションをね」 「経済担当顧問がいるんでしょう?」 なんでそんなことを、外科医のお父さんがするんですか? と、ジョルジュは不思議そうに眉を寄せる。 「スコルピオンは数字に弱いですし。 それに、しばらく入院していたりしましたから、少し華を持たせてあげないと」 にこりと笑う。 「お父さん、おじさんを甘やかしすぎですよ。政治家秘書にでもなるつもりですか?」 「ちょっと手伝うだけです」 そのちょっとが、普通の人のちょっとではない。 まったく、とジョルジュはため息をついた。 「スコルピオンに空港まで送ってもらおうと思っていたんですけどね、 無理みたいですね」 「いいですよ、別に。 それに、ザナドゥはおじさんの車になんかに乗りたがりません」 「それもそうですね」 くすっとヘルガは笑う。 まったく、いつも飄々としている人だ、とジョルジュは思う。 何を考えているのか、わからない。 いろいろ考えているのだろうけど、あまり自分とは関係ないと思っているのだろう。 息子についてでさえ。 「まあ、無我夢中で夢を追う事ができるのは、子供時代の特権です。 大人になるとね、いろいろと。 ですから、あなたは今、悔いのないように行動する事です」 それは、ジョルジュとザナドゥがこれからしようとしている事を言っているのか。 ちゃんと話したつもりはないが、ヘルガはその事を知っていた。 今日、出かけることも。 出かける前に、コーヒーでも一杯、と誘われたのだ。 ザナドゥは本部で待っていて、仕度を済ませたジョルジュが迎えに行くことになっていた。 スーツに着替えたスコルピオンが、ばたばたと降りてくる。 「出かける」 「気をつけて」 スコルピオンはヘルガに軽くキスをして、玄関に向かった。 ドアを開けてから、思い出したように振り向く。 「ジョルジュ、飛行機が落ちない事を祈っててやる」 「なんですか、それ?」 不満そうにジョルジュはスコルピオンを見る。 「空港で迷子になるなよ」 「なるわけないでしょう?」 まったく、子ども扱いなんだから。 唇を尖らせるジョルジュに、スコルピオンはニッと笑って見せた。 「それから」 スコルピオンはジョルジュに向かって人差し指を立てた。 「ザナドゥに伝えておけ。帰ったら、ガチで勝負だ」 もう一度唇を吊り上げてから、スコルピオンは慌しく出て行った。 「何なんですか、まったく」 ジョルジュはまたカップを取って、カフェオレをすする。 「心配しているんですよ」 「飛行機が落ちる事を?」 微笑を絶やさないまま、ヘルガはジョルジュを見つめる。 その視線は、何かを見透かしているようで、ジョルジュは視線を外した。 「あまり、無茶はしないでくださいね」 「戦争に行くわけではありません」 「でも、戦いに行くのでしょう?」 知っている。何もかも。ジョルジュはそっと、上目遣いに父を見た。 「反対はしませんよ。 どこにでも好きなところに行って、好きな相手と戦うといいでしょう。 後悔しないようにね」 父は、何をするにも反対などしない。ジョルジュやザナドゥが何をしようが。 「でも、ザナドゥがスコルピオンと闘うっていうのは、ちょっと困りますね」 「どうせ、リングには立てないのでしょう? おじさんは。 なんでガチで勝負、なんて?」 ヘルガの目が細まる。 「おじさんは、ザナドゥと勝負したいんですか? かつてのチャンピオンとして」 目を細めてジョルジュを見るヘルガは、昔を懐かしむように唇をゆがめる。 応えないヘルガに、ジョルジュはいらつきを感じ、首を横に振った。 「もう、行かないと」 そう言って立ち上がる。玄関に向かうと、ヘルガもその後をついてきた。 「送らないでけっこうです」 「そうですか」 玄関口で立ち止まったヘルガは、そっとジョルジュの手に触れた。 「・・・ザナドゥの強さは、よくわかっています。 リングで戦うことなんてできませんし、私がそんなことをさせません。 そうではなくて・・・ボクシングの腕ではなくて、精神的な問題です。 ザナドゥは、父親を眼の敵にしている以上、その先には進めません。 ザナドゥが真のチャンピオンとなるためには、 スコルピオンを超えなければならないのです。精神的に。 その勝負は、まだついていません。 ですから、それまで、無謀なことはするなと言いたいのです。 つまり」 ジョルジュの手に触れるヘルガの指に、力がこもる。 「無事に帰って来なさいって、言いたいんですよ」 引き止めるかのようにジョルジュの手を握るヘルガに、ジョルジュは息を呑んだ。 「あなた方が何をしようと、それはあなた方の自由です。 ただ、あなた方には帰る家があり、待っている人がいるということを、 忘れないでください」 ゆっくりとヘルガが手を離す。 ジョルジュは、父に掴まれた手を、反対の手で撫でた。 「・・・・・帰ってきます。私も、お父さんを超えたいと思っていますから。 いつか、絶対」 ヘルガが微笑む。ジョルジュは上手に笑みを返す事ができずに、背を向けた。 「行ってらっしゃい」 父の言葉に、ジョルジュは背を向けたまま、そっと返した。 「行ってきます」 必ず、帰って来る。 ギリシャを制して。